G.W.F.ヘーゲル『哲学史講義 IV』

日曜日。晴。
音楽を聴く。■バッハ:フランス組曲第一番 BWV812(マレイ・ペライア参照)。ペライアはすばらしいのだが、もっと深くを望んでしまうのはないものねだりなのか。フランス組曲はシンプルだが、見かけの簡素さにもかかわらず深いところがある音楽だと思う。■シューベルト即興曲集 op.142 D935 (ルドルフ・ゼルキン参照)。第三曲にはほとほと感じ入った。ゼルキンのピアノはスタイルとしてはいわゆるザハリッヒなそれだと思うのだが、全然干からびてなどいない。単純さと深さが同居するシューベルトの音楽にふさわしいと思う。■ヤン・ラディスラフ・ドゥシーク:弦楽四重奏曲変ホ長調 op.60-3 (カメジーナQ、参照)。たぶん誰も知らない曲だと思うが、どこがいけないのかさっぱりわからない。マイナー作曲家を聴いていると不思議な感じがする。そう、強烈な個性がないだけではないか。そして、強烈な個性とか、才能って何だろう。確かにこれを何度も聴いたら飽きるのかも知れないが、うーむ。

ヘーゲルの『哲学史講義』を読む。まだ読みかけなのだが、ヘーゲルのカントとの対決があまりにもおもしろかったので、メモしておく。いま「対決」と書いたけれど、これは比喩ではない。ヘーゲルがカントを正確に理解しているのは疑いないけれども、本書を読めばすぐわかるが、ヘーゲルはカントに対し、非常に辛辣に書いている。これがおもしろい。自分の勝手な印象では、ヘーゲルはまさに、カントが禁止していることがやりたくてしようがないので、だからむかついているのである。つまりそれは、「無限」ということに関する。本書全体を読んでみると、ヘーゲルが「無限」や「否定」という語を、独特の意味で用いていることがすぐわかる。一方でカントは、「無限」というような概念を議論で使うと、議論が理性の範囲を逸脱してしまうことを指摘している。つまりはそうするとどんなことでも「証明」できてしまうのであり、その具体例で有名な「神の存在証明」のアンチノミーを提示してみせるわけだ。カントの「批判哲学」とは、そういうものである。しかし、ヘーゲルは「無限」も「神」も語りたくて仕方がないのだ。ゆえにヘーゲルは、カントの議論は陳腐であり、常に「主観」に留まっていて、それを「否定」した「客観」に向かうことがない、幼稚な哲学だと断定してみせるのだ。そしてカントでは「絶対の真理が証明できない」と腐すのであるが、現代から見ると、それだからこそカントは偉大なのであり、ヘーゲルは何だかわからない「絶対」の彼方まですっ飛んでいってしまっているわけである。しかしヘーゲルはいま自分が書いたような議論すら先に反駁しているのであるが、「絶対の真理」などといわれても自分は困ってしまう。まあそのあたりは自分にはどうでもいいといえばそうなので、まったく「一神教」ってのは厄介だなあとか本当に陳腐なところに落ち着く。以上に関係して、ヘーゲル一神教、あるいはキリスト教徒以外は野蛮人であるとはっきりと考えていることは一応指摘しておこう。
なお、哲学で「必読書」というようなものが仮にあるとすれば、カントの三批判書こそがそれであろうかと自分は思っている。
G.W.F.ヘーゲル哲学史講義 IV』読了。長谷川宏訳。全巻完結。上にも書いたので、軽い感想だけ。フィヒテを扱った部分を読んでいてふと思ったのだが、ヘーゲルは「自我」と「超越論的統覚」(本邦訳では「先験的統覚」と訳されている)を同一視しているのではあるまいか。しかし自分には、両者は同じものとは思われない。「自我」はまさしく一人称単数であり、また究極的には存在しないこともあり得るが、「超越論的統覚」がないということは考えられない。また、「超越論的統覚」は他者乃至、二人称的存在も含むものであると思われる。というのは自分の勝手な把握であり、確かに(基本的に独我論である)西洋哲学ではあり得ない発想であるが。
 どうでもいいこと。この哲学史講義を読んでも、ライプニッツについてはよくわからなかった。モナドって要するになに? いままで納得のいく説明を読んだことがない。
 それから、このエディションの第三巻の感想でも書いたが(参照)、ヘーゲル哲学史を延々と語って、これは語られていないけれど、つまりはすべての哲学は自分自身、ヘーゲル哲学に収斂するのであり、ヘーゲル哲学を以て哲学は終ったといいたいのである。なんという不敵な自信! きわめておもしろい。

哲学史講義 IV (河出文庫)

哲学史講義 IV (河出文庫)