ダニエル・C・デネット『心はどこにあるのか』/都築響一『夜露死苦現代詩』

日曜日。晴。
なぜか早起き。
音楽を聴く。■バッハ:フランス組曲第一番 BWV812(クリストフ・ルセ参照)。美しいチェンバロだが、どういうわけかだいぶ不満を感ずる。グラビア美人みたいで、どうも好きにはなれない。もし自分がチェンバロ奏者だったら、こうは弾かないだろうと思う。繰り返し部分の装飾音も趣味がいいとはいえない付け方。きびしすぎますか? ■メンデルスゾーン:八重奏曲 op.20 (Ensemble Explorations)。メンデルスゾーンは大作曲家の中では侮られやすい存在のような気がするが、モーツァルトと同種のナチュラルな天才である。「ロマン派のモーツァルト」と言ってもいいと思う。メンデルスゾーンには下らない曲がなくて、室内楽も名曲揃いだ。この曲がポピュラーなのかまったく知らないが、メンデルスゾーンらしさのよく出た佳曲であろう。特殊な編成なので演奏機会はもしかしたら多くないかも知れないけれど、CDはかなり色んな演奏から選択できる。特に長い第一楽章がダイナミックで聴き応えがある。なお、Ensemble Explorations というのはどういう団体なのだろう。日本語訳も知らない。演奏は充分によいと思う。

Octet Op 20 / Variations Concertantes Op 17

Octet Op 20 / Variations Concertantes Op 17

スカルラッティソナタ K.44、K.45、K.46、K.47、K.48(スコット・ロス参照)。

サブ機の ThinkPad T410i ではこのところ Ubuntu Budgie と Ubuntu MATE をよく使っている。もちろんメイン機の VAIO をふつうは使い、なかなか悪くないのだが、入れてある Linux Mint 18 は VAIO と相性が悪くサスペンドが利かないので、サスペンドの使えるサブ機もよく使うのだ。遊びでは Budgie がいちばんのお気に入りなのだが、まだ開発中のディストリビューションで不具合が結構出てくるので、Ubuntu MATE も使う。このあたりの選択はまったくの感覚、むしろ自己満足みたいなもので、理由などない。
 Ubuntu MATE に virtualenv で Python 環境を作る(参照)。まだ作っていなかったのだな。Ubuntu MATE もわりと最近出てきたディストリビューションだが、既に完成度が高い感じ。GNOME 2 を採用していた頃の昔の Ubuntu っぽいところが売りらしいが、昔をよく知らない自分にはそれはあまり関係がない。細かい部分のデザインが好みなのである。使いやすさも満足できるレヴェル。ただ、もしこれをメインで使うなら、もう少し自分の普段使うアプリを入れないといけないだろう(Clementine とか)。
 ThinkPad の外付けHDDにはもうひとつ空きパーティションが作ってあるのだが、何をインストールするか迷っている。Red Hat 系はまったく入れていないので、Fedora でも入れるか。

ダニエル・C・デネット『心はどこにあるのか』読了。昨日書いた感想に、訂正すべきところはまったくない。最後まで読んでみて、心についてではなくデネットについて理解した点があるので、そのことを書く。まず素朴な感想であるが、デネットは「科学教徒」なのだなと。デネットは科学に対し、盲目的な「信仰心」があるのだと思う。もちろんデネットは科学的研究にたいそう詳しいし、自分もレヴェルは低いが、デネットのもちだす科学的記述を理解するくらいの科学的素養はあると思っている。そして、それら科学的研究を疑おうとはまったく思わない。例えば本書では進化論が説明の基盤になっているところが多いが、僕も進化論は基本的に疑っていないし、脳科学の成果も疑っていない。ただし、それらで説明できるのは心の「機械的側面」だけだと思っている。心には「機械的側面」もあれば、そうでない面もあるということであり、昨日書いた、「人間の精神は完全に必然的であり、同時に完全に自由である」という一文は、そのことを意味していると思ってもらってもよい。
 それにしても、昨日書いた「科学もまた比喩の体系である」という事実を、デネットの文章はおもしろいくらい証明してくれている。本書において、いかに「機械による比喩」が頻出することか。たとえば、毎ページのように「システム」という単語が出てくる。そして、コンピュータを始め、サーモスタット、ロボット、インストール、オンとオフのスイッチ、情報処理、フィードバックシステム、IC制御装置、メディア、内部監視システム、周辺監視システム、変換器、飛行シミュレータ、サーチ・システム、サンプリング、ビーコン、等々、もういいだろう。笑ってしまうほどだ。それこそ著者の「脳」の具合(?)がよくわかるのである。
 それからもうひとつ。本書は一見すると心についての総体的な見取り図を描いてみようという試みのようだが、じつは本書にはごっそり欠けている部分がある。それは、「感情」についてである。感情については一章を割いてもいいくらいだと思われるのに、ところどころ付随的に触れられるのみで、基本的に言及がない。これは驚くべきではあるまいか。たぶん著者は、感情を「唯物論的に」説明することは無理があるのを、直感的に(あるいは戦略的に)気づいているのである。デネットなら当然、我々は機械として笑い、機械として泣くと言うことだろう。恋も機械としてすると。まあ、そう思っている人は多そうだが。
 であるからして、本書ではまた「無意識」も正面からは取り扱われていない。僕のいうのは「フロイト的な」無意識というか、深層心理なのだが、まあ科学的には「無意識など存在しない」という認識が一般だからであろう。もちろんフロイトは現代では「科学」と見做されていないし、敢ていうならそこにこそフロイト理論の価値があるのだ。
 最後にひとつ、下衆の勘繰りを。デネットは恐らくアリには心がなく、アリは機械であると考えている筈だから、コンクリートの上を歩いているアリをスニーカでグジグジ踏んづけて殺しても、何とも思わないであろう。僕などはおやさしいのでありまするから、知らずに踏んづけたのはともかく、意味もなくアリを殺すのはあまりいい気がしない。でも、床に落ちたクッキーのかけらに群がっているアリンコたちを退治することはやるだろうから、偽善者ですかね。
心はどこにあるのか (ちくま学芸文庫)

心はどこにあるのか (ちくま学芸文庫)

デネットのような哲学者が唯物論者であるとして、では物理学者もまたみな唯物論者であるのか。僕は、それはなかなか興味深い話だと思う。まあほとんどの物理学者はそもそもそんなことは何も考えておらない(笑)と思うのだが、自分の思うところでは、現代物理学の最先端では、唯物論だか何だかよくわからないことになっているのだ。それは極めて抽象的な世界であり、基礎的な粒子というのはモノというよりは、抽象的な方程式以上のイメージをもつことができないのである(例えば大きさのない点、抽象的な「波」、軌道・運動の欠如…)。それはほとんど「コト」である。だからそれは、「観念論」の世界かも知れないのだ。抽象度の多少低い相対論の世界でも、時間と空間を統一して考えねばならず、また初歩的な量子力学の基本空間ですら複素数の世界である。確かな手応えなどどこにもありはしない。ましてや、物理学で「心」を扱うなど、大多数の物理学者にはまだ「遊び」としか思えないだろう。物理学は、まだそこまで進んでいないのである。
ただ僕は、物理学の方程式がいつか心を記述する可能性は捨てない。それは自分の信念からいくと、精神の必然と自由を説明するものになる筈で、たんなる決定論ではないだろう。もっとも、既に量子力学では、シュレーディンガー方程式は時間に関して決定論的であり(必然)、波動関数の収縮は完全に確率的である(自由)。そして波動関数の収縮には観測が不可欠である(意思)。物理学は比喩的に見て、いいところまでいっているのではないか。

図書館から借りてきた、都築響一夜露死苦現代詩』読了。まずまずおもしろかった。いちばん好きなのは「点取占い」。笑った笑った。でも、都築響一は正義だから嫌だ。ヒップホップの持ち上げ方とか、正義すぎる。一方で、統合失調症患者が治癒しておもしろい詩を書かなくなって残念だとか、どうしようもないカスだし。まあ都築響一だからいいけれどね。都築響一町田康でも赤瀬川原平でもないからといって、残念がっても仕方がない。
夜露死苦現代詩

夜露死苦現代詩