蔵本由紀『新しい自然学』

休日(海の日)。晴。梅雨明け。
午前中は使い物にならなかった。昼過ぎ、米屋、餃子の王将、肉屋。

蔵本由紀『新しい自然学』読了。副題「非線形科学の可能性」。カオス、フラクタル非線形力学などは僕が学生のころ流行ったものであり、本書の元本もちょうどその頃に出たらしい。僕などもカオス理論の講義に出ていた記憶がある。このときの興奮はいまや既に落ち着き、これらの「新しい科学」はもはや驚きを以て迎えられることはない。僕の好きな中沢さんなども、若い頃はしきりとこれら「新しい科学」(散逸構造、カタストロフィ理論を含む)のメタファを「軽薄にも」(!)使ったものである。本書は非線形科学の第一人者が、一種の「科学革命」のようなものを無意識に期待しながら、来たるべき科学のあるべき姿を提唱するような体裁になっている。決して軽薄なものではないので、科学にそれほど強くない方にもお勧めするが、自分にはそれほど役に立つものではなかった。いまとなっては自明な話が多く、むしろ問題なのは、ハード・サイエンス(「非線形科学」)で突き抜けていくのも「述語的統一」も結構だが、それが言うのは易く行うのがむずかしい題目であることだ。多くの科学者に広い視野が欠けているのは事実だが、どの分野でも、学問の最先端に到達するだけで大変であり、そこで世界的な活躍のできる人などさらに限られている。なかなか広い視野をもてるほど余裕がない人が殆どであり、著者などは相当に色いろ勉強されているが、正直言ってまだまだ勉強が足りない(何様ですね)。人文系、社会科学系の学問分野は、一部の哲学に目配りがされているくらいである(それだけでもまだマシなのだが、ってのも何様)。ましてや、我々平凡人などはどうせよという感じだ。じつにむずかしい問題であると、紋切り型で締めくくっておこう。

創発」なんていうのは一時期流行語になったが、最近では殆ど聞かない。なつかしい気がする。それから、確か物理数学の講義でロジスティック方程式やロトカ・ヴォルテラ方程式をやったりしたのを覚えているから、非線形科学は本当に流行っていたのだと思う。ベルーソフ・ジャボチンスキー反応もどこかでやったな。

ブログ「qfwfqの水に流して」の今日のエントリーは、「自分がクッツェーの小説を読めていない」という体裁になっているけれど、じつは暗に鴻巣友季子訳批判として読めてしまうな。鴻巣訳では、くぼたのぞみの指摘に気づくのはまず不可能だろうから。こういう文章ってのはどうなのだろうなあ。