岩波文庫版『自選 大岡信詩集』再読/玄侑宗久『ないがままで生きる』

日曜日。雨。
音楽を聴く。■バッハ:フランス組曲第五番 BWV816(ヒューイット、参照)。どうしてこの曲のジーグがこんなに好きなのだろうな。■ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第十二番 op.26 (ギレリス、参照)。■メンデルスゾーンピアノ三重奏曲第一番op.49 (チョン・キョンファ、ポール・トルトゥリエ、アンドレ・プレヴィン参照)。重量級の演奏。この曲はもっと軽く演奏されてもよいのだが、まあさすがに名手たちである。プレヴィンのピアノはメンデルスゾーンらしい軽みと美しさがあって、ぴったりだった。■ハイドンピアノ三重奏曲ニ短調 Hob.XV-23 (トリオ1790、参照)。

青柳いづみこさんがポロリとこぼしておられたが、いまや日本だけでなく、世界的にクラシック音楽は聴かれなくなってきているようだ。なるほど、さもあらん。まあ自分にはどうということもなくて、クラシック音楽に生命力がなくなれば、聴かれなくなるのも仕方がないのかなと思う。実際、既に天才的な音楽家は(作曲家・演奏家ともに)すっかり出なくなった。たぶん、ポピュラー音楽の方に、天才は出ているのであろう(よく知らないが)。ジャズやロックなども聴きたいのだが、なかなかそこまで手が回らない。まあそうしたのを聴く人は多いので、自分はマイナーなクラシック音楽をとりあえずもう少し聴いてみようと思っている。

岩波文庫版『自選 大岡信詩集』再読。本日付の朝日新聞朝刊(名古屋本社版)の書評に、蜂飼耳さんが大岡信に関する本を取り上げておられて、もう一度本書を読み直してみないといけないなと思ったので、再読してみた。そして、最初に読んだ時の感想は自分には正確であると思われた。どうも大岡信の詩というのは、絵に書いたような「文学少女」が愛読しそうな、いわゆるぽえむであると云うべきであろう。別にそれで悪いこともないだろうという反応があってしかるべきだが、自分はまだ修行が足りなくて、こういうぽえむにはこう、身悶えしたくなるような恥ずかしさを禁じ得ないのである。例えば『記憶と現在』所収の「肖像」という詩(p.57-60)は若々しいセックスの詩だと勝手に思ったのだが、自分にはこれはたまらない。勘弁してくれという感じである。ちょっと大袈裟に反応しすぎな気もするが、とにかく自分の修行が足りない。もちろんいい詩もあるのだが、この人の詩に感じられる「甘やかさ」が、どうも苦手なのだ。何というか、ハードボイルドでないというか。ま、自分がおかしいであろうことはわかっているのですけれどね。またそのうち読み返してみよう。

自選 大岡信詩集 (岩波文庫)

自選 大岡信詩集 (岩波文庫)

玄侑宗久『ないがままで生きる』読了。読んだ方がいいと思う。また玄侑さんですかと言われるかも知れないのだが、言わざるを得ない。まったく素直に書いておられる。師の限りなくふつうっぽいところが、実は余人には真似のできないところなのだ。そして人によっては、遙かに深く読んでいくことも可能である。宝の山なのであるが、皆んななかなかそれに気づくことができないのだよなあ。