宮澤淳一『グレン・グールド論』/関川夏央『「解説」する文学』

曇。
音楽を聴く。■シューマン:謝肉祭 op.9(アラウ、参照)。アラウのシューマンがこんなに素晴らしいとは。「謝肉祭」が端から端までわかったような気にさせられる。アラウは若い人たちに最も聴いてもらいたい音楽家だ。■ハイドン:ピアノ・トリオ変ホ長調 Hob.XV-22 (トリオ1790、参照)。

図書館から借りてきた、宮澤淳一グレン・グールド論』読了。市の図書館で見つけて、喜んで借りてきた本である。著者は日本を代表するグールド研究者であり、グールド関連の著作の翻訳などで、以前からハイレヴェルな仕事をされてきた方であって、本書は以前から気になっていた。読み終えて一言でいえば、まことに精密な論考である。そして、このような「○○論」という精緻なモノグラフィーは、最近ではあらゆる分野でマイナーになったなあということをつくづく思った。マイナーというか、アカデミズム化したのであり、かかる書物は一般読者から遠くなってしまった。また、ポリーニやグールドといった、モダンの極限までいった人たちの仕事が理解されなくなったのも昨今の風潮であると思う。我が国のインテリで言えば、浅田彰さんのような人の出番がなくなっている。これは何より、端的に言って全体的なレヴェルが下がり、ただモダンの極限というものが理解できなくなったからというべきであろう。どうしてこんなことを書いているかというと、本書がいまや非常に孤独に見えるからである。本書のレヴェルが圧倒的に高いのは、明らかなことではあるまいか?
 であるからして、本書は自分のレヴェルも大きく超えている。なので、本書の内容について突っ込んで書くことは無理である。けれども、第三章はカナダ人としてのグールドを論じていて、これが感動的であったことは書いておこう。カナダというよりは、「北」についての哲学的考察とも言える。それについてここで突っ込んで書くかは迷ったが、悩んだ末に止めておく。ただ、それは自分の問題として、つまり東京ではなく、地方に生きる凡人(自分はグールドとはもちろん比較にならない)として、受け止めることが可能であったことは記しておこう。そして敢ていえば日本はこれから世界の中で否応なく辺境化し、「カナダとしての日本」を考えざるを得なくなるとも言っておこう。そのとき、日本人はどう自らを考えたらよいのか、本書で考察された視点が生きてくるものと思われる。

グレン・グールド論

グレン・グールド論

なお、はてなで本書のタグを貼り付けてあるエントリーを見てみたのだが、これから読みますとかばかりで、読後の感想を書いたものが殆どなくてつまらん。いつもそうなので、皆んなもっと感想を書いてくれると楽しいのに。(まあ、本書については自分もお茶を濁していますが…。)

図書館から借りてきた、関川夏央『「解説」する文学』読了。
「解説」する文学

「解説」する文学