ギュンター・グラス『ブリキの太鼓』

日曜日。晴。
図書館から借りてきた、ギュンター・グラスブリキの太鼓』読了。池内紀訳。ふう、ようやく読み終わった。いったいどれくらい借り直したことか。途中で挫折してもよかったのだが、義務感というか、どうも読んでおいた方がよいと何となく思ったので読み続けた。それにしても、自分にはまったくわからない小説だった。近頃外国文学(というか、西欧語で書かれた現代小説)はホントにわからないと感じるようになった。以前よりもさらにわからない感じがする。本書にも、優れた訳者解説や月報の編者解説があるが、そこに書かれていることはよくわかるけれども、自分の感じている「わからなさ」には何のヒントにもならなかった。だいたい、本書はすごく楽しい物語らしいのだ*1。自分にはまったくそうは思えなかった。正直言って、読むのはかなり苦痛だった。何だか主人公のオスカルが痛々しすぎて、かなわない。オスカルは三歳児のまま意図的に体の成長をやめてしまった少年である。彼の叩くブリキの太鼓は魔力をもち、また彼の金切り声は自由自在にガラスを割ることができる。一種の「退行的な超人」だ。そして、ガキのくせにいやに大人ぶり、スケベで、実際に人を何人も殺す悪人でもある。人が簡単に死んでいく。奇形たち。本書の背景はその多くがナチス時代のダンツィヒである。そこにどうして「楽しい」物語が描けるというのか。本書の語り口は確かに「陽気」でないこともないが、オスカルの陽気というのは悪魔的なものだ。本書が怪物的な傑作であることは認めるけれども、繰り返すが、自分には本書がよくわからない。この膨大な小説を書き続けた、グラスのモチベーションは何だったのだろう?

それから、本書が非常に「きたならしい」感じを与えることを附記しておこう。自分の反吐をもういちど食べ直すような「きたならしさ」である。馬とウナギのシーンは有名であるが、オスカルがきたならしいスパゲティを食べるところとか、「玉ねぎ酒場」の中とか、犬が死体の一部を銜えてくるところとか、膿のつまったコブとか、他にもたくさんある。我々異教徒にはそれほどでもないが、キリスト教徒にはオスカルが「涜聖」的なことをするところなどは、かなりくるのではないか。それから、女の体のあまりきれいとは言えない部分…。

*1:よく読み直してみたら、解説らにはそんなことは何も書いてなかった。おもしろいとは書いてあったが。おもしろい?