雨。
音楽を聴く。■バッハ:前奏曲とフーガ ハ長調 BWV547、「高き天より我きたりて」によるカノン風変奏曲 BWV769 (グスタフ・レオンハルト)。
- アーティスト: レオンハルト(グスタフ),バッハ
- 出版社/メーカー: ソニー・ミュージックレコーズ
- 発売日: 1997/12/12
- メディア: CD
- クリック: 7回
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昼から県営プール。米屋。肉屋。
何だかさっきから「ヤコビの恒等式」で検索サイトから大量にアクセスがあるのだが、「ヤコビの恒等式」がどうかしたの? まあ確かに、google検索でもこのブログが2番目に来ているのだけれども。
そういえばふと思い出したのだけれど、このところカルコス(本屋)へ行くとアドラーがやたらと目につくというのは、アドラーがどうしたというのか? 何でいまさらアドラー?
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松野孝一郎『来たるべき内部観測』読了。著者は森羅万象を擬人化してしまうが、それはやはり「科学」とは言えないのではあるまいか。「内部観測」っていうのはおもしろくないことはないので、例えば(勝手に敷衍させてもらうが)プログラミング言語 Ruby におけるオブジェクトは「すべてを知っている」から、インスタンス変数こそが「内部観測」と言うことができるかも知れない。このとき、オブジェクトは「一人称」であるとも云えるだろう*1。しかし、こんなことを言って、何か意味があるのだろうか。もちろん、挑戦ということはいつでもあっていいわけだが。本書は、たぶん自分などには理解できないのであろうが、勝手なことを言えば、壮大な「徒労」であったような気がする。その試みは多としたいけれども。
それから、これは自分の頭が悪いせいかも知れないが、本書は未定義の独自用語が多すぎて、何だか意味不明な文章もまた多すぎるように見える。例えば「感覚入力を受け取り、そこから制御出力を各運動器官に向けて送り出す脳は、入力と出力を統合する一つの行為体である」(p.196)という文章がある。ここでは「行為体」というのが未定義語であり、これが単なる比喩であればよいのだが、重要語として頻出であるのに、未定義語であるため、文意があちらこちらで明瞭でない。本書にはこういう類が頻出し、自分のような知識も能力もない読者を惑わせる。自分には残念なことであった。
来たるべき内部観測 一人称の時間から生命の歴史へ (講談社選書メチエ)
- 作者: 松野孝一郎
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2016/05/11
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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しかし、こんなこと書いても意味ないよね…。まあいいか。
*1:どうもこの用法は、「内部観測」の「観測」という語に引きずられているように見える。その語が、「主体」を要求しているように錯覚させてしまうのだ。