松野孝一郎『来たるべき内部観測』

雨。
音楽を聴く。■バッハ:前奏曲とフーガ ハ長調 BWV547、「高き天より我きたりて」によるカノン風変奏曲 BWV769 (グスタフ・レオンハルト)。

バッハ:オルガン作品集

バッハ:オルガン作品集

モーツァルト:ディヴェルティメント ヘ長調 K.253、変ロ長調 K.270(ホグウッド、参照)。■ラロ:スペイン交響曲 op.21 (レオニード・コーガン、シャルル・ブリュック、参照)。あまり聴かないけれど、エキゾチックでなかなかおもしろい曲だな。それから、ヴァイオリンってこうやって弾くのね。今ごろわかってきた気が。

昼から県営プール。米屋。肉屋。
何だかさっきから「ヤコビの恒等式」で検索サイトから大量にアクセスがあるのだが、「ヤコビの恒等式」がどうかしたの? まあ確かに、google検索でもこのブログが2番目に来ているのだけれども。
そういえばふと思い出したのだけれど、このところカルコス(本屋)へ行くとアドラーがやたらと目につくというのは、アドラーがどうしたというのか? 何でいまさらアドラー

松野孝一郎『来たるべき内部観測』読了。著者は森羅万象を擬人化してしまうが、それはやはり「科学」とは言えないのではあるまいか。「内部観測」っていうのはおもしろくないことはないので、例えば(勝手に敷衍させてもらうが)プログラミング言語 Ruby におけるオブジェクトは「すべてを知っている」から、インスタンス変数こそが「内部観測」と言うことができるかも知れない。このとき、オブジェクトは「一人称」であるとも云えるだろう*1。しかし、こんなことを言って、何か意味があるのだろうか。もちろん、挑戦ということはいつでもあっていいわけだが。本書は、たぶん自分などには理解できないのであろうが、勝手なことを言えば、壮大な「徒労」であったような気がする。その試みは多としたいけれども。
 それから、これは自分の頭が悪いせいかも知れないが、本書は未定義の独自用語が多すぎて、何だか意味不明な文章もまた多すぎるように見える。例えば「感覚入力を受け取り、そこから制御出力を各運動器官に向けて送り出す脳は、入力と出力を統合する一つの行為体である」(p.196)という文章がある。ここでは「行為体」というのが未定義語であり、これが単なる比喩であればよいのだが、重要語として頻出であるのに、未定義語であるため、文意があちらこちらで明瞭でない。本書にはこういう類が頻出し、自分のような知識も能力もない読者を惑わせる。自分には残念なことであった。
来たるべき内部観測 一人称の時間から生命の歴史へ (講談社選書メチエ)

来たるべき内部観測 一人称の時間から生命の歴史へ (講談社選書メチエ)

なお、本書は基本的に物理学のタームで書かれていると言ってよく、著者は物理学を詳しく研究されていて自分の及ぶところではないが、平凡な物理学徒であった自分のような者には、「熱帯性低気圧は一人称行為体である」というような命題は正直言ってよくわからなかったことを告白しておく。また、クエン酸回路において「同一」炭素原子が回路内に存在することが重要視されているが、著者が理解されている(筈である)とおり、量子力学的粒子に「個性はない」。つまり、二つの炭素原子を区別する方法は一切ない(炭素原子はすべて同一である)というのが量子力学の教えであろう。そのあたりも記述につまずいてしまった。蛇足まで。
しかし、こんなこと書いても意味ないよね…。まあいいか。

*1:どうもこの用法は、「内部観測」の「観測」という語に引きずられているように見える。その語が、「主体」を要求しているように錯覚させてしまうのだ。