ヴォルテール『寛容論』

晴。
寝過ぎ。
今日はごろごろしていて何もしないと思ったのだけれど、なかなか無理ですね。
音楽を聴く。■ブラームス:ヴァイオリン・ソナタ第一番 op.78(デュメイ、ピリス、参照)。第一楽章はもっと線が太い方が好みかな。それから、第二主題が最後に出てくるところ、ピリスのピアノはもっと上手くヴァイオリンに寄り添って欲しかった。そこがロマンティックなのに。

たまたまはてな匿名ダイアリーとかはてブとかの「ホッテントリ」を読み続けていて思ったのだが、かつて2ちゃんねるなどで醸成されていたものが、いまはネット上でふつうになっているのだな。まさしくこれこそが「地獄」で、一切の希望がない。殺伐荒涼として、ふつうにここまでになっているとは。僕は思うが、これは坊主などにちょうどいい修行の場ですね。この煩悩の地獄世界を、一手に担って欲しいと思う。お互いがお互いを不幸にするという人間の本性が、ここまで可視化されているのは、ある意味では「画期的」であると云えないこともない。すごい時代になったものだ。

ヴォルテール『寛容論』読了。斉藤悦則訳。中公文庫版を既に読んでいる筈だが、中身はまったく覚えていなかった。ええかげんな読書である。さて、寛容。誰もがひれ伏すしかない概念なのに、いざ実行しようとすると非常にむずかしいのは何故なのだろうか。本を読むということだけでも、寛容というのはむずかしいのだ。そして、ヴォルテールは寛容に至るには理性が重要であることを強調するが、それもなかなか簡単には肯定できない。もちろん理性が大切なものであることは言うまでもないけれど、僕には理性は鋭いナイフのようなものに思える。寛容を推奨するためにも、それを否定するためにも、いずれにも使えるのが理性だ。要は、理屈など何とでもつくというのが自分の考えである*1。だから、理性は重要だが、それだけではダメだ。
 それにしても、こうしたことは千年以上も前から考えられてきたのに、いまだに結論がでない。いや、管理社会の到来と国家の「警察国家化」が、その結論なのかも知れない。いずれにせよ、我々の愚かしさは否定のしようがあるまい。その中にあってわずかにキラリと光るものを、我々は大切に育てていくしかないであろう。

寛容論 (古典新訳文庫)

寛容論 (古典新訳文庫)

*1:いまさら「純粋理性のアンチノミー」なんてことを持ち出す必要はあるまい。