柄谷行人『憲法の無意識』

日曜日。曇。
よく寝た。どれだけでも眠れるな。
音楽を聴く。■モーツァルト:ピアノ協奏曲第二十六番 K.537、ロンド K.382 & K.386 (ペライア参照)。第二十六番はなぜかこの曲だけモーツァルトの中では苦手だったのだが、今回聴いてみて何が苦手だったのかなと思った。ただ、モーツァルトの中ではかなり外面的な曲だとは思う。ロンド K.386 は、(これも)なぜか覚えにくい。こんな曲あったっけと思ってしまう。
昼から仕事。5時間ぶっ続けはさすがにシンドかった。
NHK大河ドラマ真田丸」をいつも楽しみにしているのだが、今日放送の「沼田裁定」なんて本当にあったかのかと思い、Wikipedia で調べる。信繁が活躍したわけではなさそうだが、実際に「沼田裁定」はあったようで、これが北条滅亡の原因となるのはドラマどおりであるらしい。これをきっかけに Wikipedia でドラマ関係の項目を読みまくる。いやあ、おもしろかったですねえ。他人にはどうでもいいことだろうが、少しだけ書きますね。まず、信繁(いわゆる「真田幸村」)については、大阪冬の陣以前のことはあまりわかっていないらしい。ただ、秀吉の馬廻衆だったのは、最近の研究で事実らしく、ちょっと驚いた。むしろ、真田と云えば父親の昌幸の大活躍はよくわかっている。また、兄の信之は、ドラマのイメージとは多少ちがって、かなりの猛将だったようである。あとひとつふたつ。これはドラマではまったく出てこないのだが、昌幸の妻と石田三成の妻は姉妹であった。どうしてドラマでは出てこないのかなあ。それから、これまでのドラマなどでは大谷吉継は癩(ハンセン病)であるという設定になっているのが普通だが、「真田丸」ではそうなっていない。実際、大谷が癩であったという一次資料はないようだ。

柄谷行人憲法の無意識』読了。最初にまず述べておくが、本書が広く受け入れられることはないような気がする。特に、若い世代は、本書をまずは黙殺するであろう。それくらい、現在の一般的な感覚からは、本書はズレている。というのは、本書の第一章と第二章で、著者はフロイト理論を叙述の導きとしているが、そのフロイト理論は、現在では何の実証性もない、非科学的な理論と見做されるのが普通だからだ。「憲法第九条は超自我である」という主張を目にしただけで、本書を屑籠へ捨て去る態度こそ、一般的であると思う。また、第三章と第四章は憲法(第九条)の話というよりは、柄谷の近年の主張である「交換様式」と「カントの平和論」の話である。そればかりでなく、「武力を放棄した国に攻め込んでくるような国は、世界中から非難されるであろう。だから日本は武力を放棄しても他国から攻められることはない」などという認識には、失笑ばかりか著者の頭の正常さを疑う人間が出てきても特に不思議ではない。実際、著者のナイーブさにはさすがに自分も驚かされるところがある。
 けれども、自分にはまた柄谷に好意的でありたいような気もしないではない。自分には思想家としてのかつての柄谷に対するリスペクトがあるので、これほどの人が無意味なことを言う筈がないという思い込みがある。ただ、柄谷がマルクス主義経済学を信奉し、「1970年代から資本主義における一般利潤率の低下が見られる」などというのは、本当にこれを意味のある真実だと思っておられるのであろうか。まあ自分などには理解できる話ではないのだろうが、それを誰かが理論的実証的に証明している研究があれば読んでみたいものだと思う。それまでは、戯言(たわごと)であるとしか思えない。
 それから、自分は以前から、柄谷の主張する「交換様式D」がよくわからない。「普遍宗教」ということであるが…。柄谷はこれは、厳密には交換様式ではないとも述べていて(p.125)、さらにわからない。よく読んでも、これは交換様式A, B, C を否定するものであると、否定的に定義されているのみである。これは東浩紀氏が切り捨てた、「否定神学」そのものにしか見えないのだ。本書には「『愛の力』といってもいいのですが、それはたんなる観念ではなく、リアルで唯物論的な根拠をもつものです」(p.128)ともあるが、さらにわからない。しかしこれこそ、すぐ後の文章で憲法第九条にリンクされるのである。つまりは、「愛は地球を救う」ということなのであろうか。いずれにせよ、交換様式D は、よくわからないがために、却って柄谷の議論のあらゆる根拠になっている。もっとも、わかる人にはわかるのかも知れない。そのわからなさが、自分の柄谷に対する態度を微妙にさせている。たぶん、自分などにはわからないのであろうという…。
 とにかく、本書はつまらないことはなかった。自分もまずは「護憲派」と言っていいし。ただ、あとひとつだけ、疑問に思ったことがあって、柄谷には日本の民衆が憲法第九条を(無意識として)支持し続けるという確信があるのだが、自分はそれはどうなのであろうと思う。将来、若い人たち憲法第九条を支持しなくなるのではないかという見通しが、自分には捨て切れないのだ。ネット世代の若い人たちの常識は、なかなか我々オールド世代にはわかりにくいところがあるが、自分は楽観的にはなれない。日本人はいま、急速に変化していると思う。たぶん柄谷行人は、ネットなど見ないのではないか。

憲法の無意識 (岩波新書)

憲法の無意識 (岩波新書)

なお、僕自身は、フロイト理論、またその徹底化であるラカン理論も、非科学的であるということで切り捨てることはしない。別に科学であるとはまったく思わないが、というのもフロイト理論(ラカン理論)が「無謬の」理論だからである。そのようなものが科学的である筈はない。しかし、「無意識」の発見など、フロイト理論は捨て去ることはできないのである。もっとも、フロイト(したがって柄谷)の「無意識」は、ほとんど「意識」に近いのであり、自分の考えている無意識とはちがうのであるけれども。
それから、これは蛇足だが、フロイトの「死の欲動」を、アポトーシス(という言葉は使われていないが、たぶんアポトーシスのことであろう)で説明するのは、どういうものなのであろうか。自分は生物学者ではないので何とも云えないけれども、アポトーシスは生物の形態を胚がかたち作っている最中に、形態の形成のために一部の細胞が「死ぬ」等の現象であるが、「細胞死」は「個体の死」とはまったくちがうものであるというのが自分の印象である(我々の体内の細胞も常に入れ替わっている。それはむしろ「生」の範囲の話である)*1。それは、一種のプログラム化された「細胞死」なのである。まあこれは、よく知らないので、強くは主張しないけれども。

*1:アポトーシスが個体の「生」のために具体的に役立っている例すらある。それは癌細胞についてである。どのような人間でも毎日体内に多数の癌細胞が出来てしまうのだが、その癌細胞の殆どはじつはアポトーシスにより死滅する。ゆえに、そんなに簡単に悪性腫瘍は出来ないようになっているのである。