東浩紀&大山顕『ショッピングモールから考える』/小菅信子編『原典で読む 20世紀の平和思想』

曇。
音楽を聴く。■バッハ:管弦楽組曲第三番BWV1068(ミュンヒンガー、参照)。■ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第二番 op.18 (ツィマーマン、小澤征爾)。これはおもしろかった。ツィマーマンも小澤征爾も自分のよくわからない演奏家であるが、未知の体験というのはいい。曲が新鮮に聴こえた。そして、この大甘の曲が、自分はキライではないというか、結構好きなことを再確認した。ツィマーマンも小澤征爾も、もう少し聴いてみたいね。

ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第1番、第2番

ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第1番、第2番

■ミヨー:弦楽四重奏曲第十三番 op.268(パリジQ、参照)。

昼から県営プール。生命力って何だろうなあとかぼーっと考えながら泳いでいた。泳いだあとのポカリスエットが気持ちよすぎて止められない。
まつもとさんのツイッターおもしろい。ツイッターって自分には殆どどうもよいのだが、Matz はええなあ。エラくなってもふつう人気分がまったく抜けていない。ついでに、松江人ってやっぱり関西人?
東浩紀大山顕『ショッピングモールから考える』読了。ショッピングモールを徹底的に肯定する連続対談である。自分の時代遅れぶりを突きつけられるというのは、あまり気持ちのいいものではない。僕とて、ショッピングモール的なもののおもしろさはわからないことはない。しかし、自分の家の近所には、全国でも三本の指に入るというイオンのショッピングモールがあるが、独身の中年男性が独りで居てもあまり楽しくは感じられないところである。それに、自分には、あそこは人が多すぎる。買うものもない。結局ああいうところは、今のふつうの感覚をもった人たちにとって楽しい場所なのだと思う。それにしても、本書で特に大山氏が、「田んぼ」というのを差別用語として何度も使うのは、さすがにヒドいのではないか。東京が発展すれば地方は衰退しても仕方がないという東氏の発言も、田舎に住む者としては意気消沈させられるものであった。地方が東京のバックヤードになっていて、それを積極的に肯定するというのも。何だか悲しくなってくる。勘違いかも知れないが、いわゆる「テロリスト」になる人たちの心境がふとわかった気がした(「テロ」を肯定するわけではない)。本書にあるように、ショッピングモールという「ユートピア」には必ずバックヤードが必要である。バックヤードをなくすことはできない。そして世界には、ショッピングモールの中には入れず、バックヤードで生きるしかない人たちが確実に存在する。そうした人々をなくすことは決してできないのだ。

図書館から借りてきた、小菅信子編『原典で読む 20世紀の平和思想』読了。本書の八割からは得るところがなかった。しかしまあ、読んでおいてよかったとは思う。僕は思想の重要さを決して軽視していないと思っているのだが、本書の語るところは本当に「思想」なのだろうか。僕には、多くからは単なるおしゃべり以上のものは感じられない。いまさら、殆どの人間には戦争は肯定できず、平和が大切であることは自明であろう。それなのに、どうして戦争はなくならないのか、そこである。どれだけ言っても、考えても戦争はなくならない。僕は、その戦争の「なくならなさ」に関するファクトが得たい。そういうものはなかなかないのだ。本書も、どうやらそれを与えてくれなかったようである。
原典でよむ 20世紀の平和思想 (岩波現代全書)

原典でよむ 20世紀の平和思想 (岩波現代全書)

しかし、こういうことを云ってはいけないのかも知れないが、こういう本を読むと気分がくさくさする。何もかも考えられてきたようで、じつはまだ、何もかもあまりにも考えられていないようにも思える。「庶民」の「戦争はイヤだ」という感覚と、政治家的発想の間にギャップがありすぎる。この溝は、決して埋まらないのかも知れない。ああもう、イヤなことだ。
 すべての戦争は「正義の戦争」なのである。これは何度も立ち返らなければならないファクトである。「正義の戦争」と呼ばれない戦争はない。

あほなことしよ。くさくさ。