国家と民衆

国家とは何かとはテーマとして大きすぎるが、簡単な思考実験をしてみる。国家とは、国民は国家のためにあると考える存在そのものである。そう定義してみる。これは再帰的定義なので、メタ・レヴェルとオブジェクト・レヴェルを混同しており、論理学的には許されないが、一種の矛盾的定義として理解可能であろう。こうすると、定義に国家の「共同幻想」性と、暴力装置としての実体的側面の両面を、矛盾として共に取り込むことが可能になると思う。そして、民衆とはその逆、すなわち、国家は国民のためにあると考える存在そのものであると定義できる。
 こう定義すると、はっきりすることがある。すなわち、国家と民衆は互いに相容れない存在同士であるということだ。そしてまた、国家という存在が自己目的化していることも明らかになる。すなわち、国家は自らが廃滅されることを許さない。それは定義からのコロラリーとしてそう結論される。
 これらは実態をかなり正確に表現しているのではないか。
 こうしてみると、政治家が必ず国家であるわけではないし、一般人が必ず民衆であるわけでもないことがわかる。そして、官僚が国家の本質の極めて大きな部分であることも理解できるだろう。政治家よりも、むしろ官僚こそが国家である。
 なお、以上は幾何学的な議論ではない。あくまでも矛盾的なそれである。そして、国家の矛盾性を考慮することは重要である。国家そのものにはある意味では内容がない。それゆえに、すべてを飲み込んでしまえる怪物的存在であるのだ。
 また、別の方に議論を展開することもできる。というのは、国家とエリートは同値であるということだ。すなわち、エリートとは国民は国家のために存在すると考える存在そのものである。そして、エリートは必然的に、国家と自分を同一視する。これは論理的に整合である。ゆえに、エリートにもまた内容がない。