呉座勇一『一揆の原理』

晴。
音楽を聴く。■ショパンマズルカ ト短調 op.24-1、ハ長調 op.24-2、変イ長調 op.24-3、変ロ短調 op.24-4、ハ短調 op.30-1、ロ短調 op.30-2、変ニ長調 op.30-3、嬰ハ短調 op.30-4 (ルービンシュタイン参照)。■ブラームス:ピアノ協奏曲第一番 op.15 (アシュケナージハイティンク)。アシュケナージは予想どおりかと思ったが、それでもやはり素晴らしい。曲の後の方になるほどいいと思う。ただ、フレーズに入るところで一瞬遅れる手癖は、ちょっと気にならないでもない。ハイティンクは、彼としては普通。

Brahms: Piano Concertos, Haydn & Handel Variations

Brahms: Piano Concertos, Haydn & Handel Variations

■クーラウ:ソナチネ ヘ長調 op.59-2(ブリガンディ、参照)。■ミヨー:弦楽四重奏曲第七番 op.87 (パリジQ、参照)。

昼から県営プール。堤防道路を車で走っているとじつに気持ちがよい。いま、一年でいちばんいい季節だろう。
呉座勇一『一揆の原理』読了。著者は若手の日本中世史家である。一揆は必ずしも暴力行為だけでなく、訴訟や契約といった側面があるということを明らかにする、大変におもしろい本だ。また、鬱屈した、行間を読むべき吐き出すような表現が少なくなく、その辺も愉快だった。学術書だか何だか知らないが、活きがいい。本書にはところどころに現代の SNS に関する言及があり、これも歴史書には稀なことであるが、これを著者の趣味であり、余分なものと捉えてはならない。著者は例えばフェイスブックを高く評価するが、これは一方で著者が従来のマルクス主義史観を低評価するのと対になっており、著者にとってはじつは一種のイデオロギーとしてフェイスブックが作用していることは本書において本質的である。これを見ても、イデオロギーが廃滅したようで、じつは我々がイデオロギーから抜けられないことが、本書からもよくわかる。だいたい、本書の題に「原理」という文字が入っていること自体、語るに落ちているだろう。それは別に、特段否定すべきばかりであるとは限らない。人間とはそういうものだと思う。自分もまたイデオロギーから脱却できているとは思わないのだ。
一揆の原理 (ちくま学芸文庫 コ 44-1)

一揆の原理 (ちくま学芸文庫 コ 44-1)

ああ、マジメなことを書きすぎた。下らないことをしよう。(PM9:14)

荻原魚雷さんがおもしろいことを書いておられる。

匿名でも「私一個の見解」を書き続けているうちに、ある種の「キャラ」もしくは「役割」のようなものが出来上がってくる。……その「キャラ」や「役割」と現実の自分があるていど一致しているうちは問題はない。しかし、それも時間とともにズレていく。ズレをなくそうとしすぎるとおかしな文章になる。

http://gyorai.blogspot.jp/2016/04/blog-post_11.html

むしろ、最初から自分というものがあるのではなく、書いていくことによって出来てくるものこそ「自分」なのであろう。プロの文章家に個性がはっきりした人が多いとすれば、彼ら彼女らは不断に「自分」を書くことによって構成しているからにちがいない。これは書くだけでなく、「自分」を演じるとすれば、またそれこそが自分なのである。では、「本来の自分」というものがあるとすれば、それは何か。それもまた、きっと自分で構成している部分が多いにちがいない。ただしそれは、文章によるものではなく、むしろ環境や生活習慣などが構成する。ゆえにそれは、ある意味「自然」なのである。