フロイト『不気味なもの』/ジリボン『不気味な笑い』

晴。
音楽を聴く。■リスト:ピアノ協奏曲第一番、第二番(ラザール・ベルマン、カルロ・マリア・ジュリーニ)。こう続けて聴くと、第二番の方が圧倒的におもしろいことがわかる。第一番はよくできたポピュラー曲に過ぎないとも云えるが、第二番はピアノ・ソナタ ロ短調や「巡礼の年」のリストが顔を覗かせているのだ。ベルマンはさすがに十九世紀的ヴィルトゥオーゾの名に恥じない、立派な演奏。ジュリーニと VSO はふつう。

Piano Concertos Nos. 1 & 2

Piano Concertos Nos. 1 & 2


フロイト『不気味なもの』/ジリボン『不気味な笑い』読了。原章二訳。ベルクソンの『笑い』新訳については既に書いた(参照)。訳者はジリボンの論文に出会って本書を作ったそうであり、その論文を高く評価している。さて、どうであるか、自分にはよくわからない。自分は最近、この論文のように綺羅星のごとく著名固有名詞を鏤めた文章に飽きてきているので、正当な評価ができない。実際、ジリボンのさして長くもない論文の中に、ベルクソンフロイトは当然として、多量の固有名詞が列挙される*1。もちろん、それ自体がいけないと言ったら言い過ぎなのだろう。が、どうも今の自分にはいけない。論旨も挙げないで何であるが。
 本書で自分にいちばんおもしろかったのは、フロイトである。詳しくは書かないが、自分には笑いというものは深いものと関係があるように感じられる。それがいちばん感じられるのがフロイトであるということだ。と言ってもフロイトはこの論文で笑いについては書いていないのだが、それこそジリボンではないけれど、不気味なものと笑いには源泉を同じくするところがある。しかし、無意味なことを書くが、笑いって何なのだろうね。フロイト理論には「リビドー」というものがあるけれど、笑いについても、これを考慮したくなるところがある。
 あまり関係がないけれど、フロイトって今では言及されなくなったよね。精々ラカンだろう。結局、フロイトの登場が爆発的(?)であったのは、彼が「無意識」というものを明るみに出してしまったからである。今フロイトが言及されなくなったのは、彼の言説が「科学的」に見えないことにかこつけて、「無意識」を考えたくないという潮流が支配的になっているからだろう。無意識? そんな非科学的なものは知りません、みたいな。今はフロイト以降ではあるが、新たなフロイトが必要とされているというのは考えてみれば驚くべきことだ。無意識の抑圧と非合理主義の台頭。まさしく歴史は二度繰り返すのである。そして今回のそれは、果たしてファルスなのだろうか。
笑い/不気味なもの (平凡社ライブラリー)

笑い/不気味なもの (平凡社ライブラリー)

*1:ちょっと挙げてみようか。モリエールマラルメアリストファネスチャップリンラブレーシェイクスピアユゴー。イヨネスコ。ベケットバフチンピーター・ブルックデカルトハイデガードゥルーズガタリパスカルラ・ロシュフコーラ・ブリュイエール。バルタザール・グラシアン。ソフォクレスラシーヌプラトンカミュグレゴリー・ベイトソンカフカラヴクラフトラカンサルトル。ダリ。等々。これらですべてではないが、まあいいだろう。別に大したことはない? 確かに。ふつうですな。