ベルクソン『笑い』

曇。
音楽を聴く。■モーツァルト:ピアノ・ソナタ第四番 K.282(ピリス、参照)。■チャイコフスキーピアノ三重奏曲イ短調 op.50「偉大な芸術家の思い出に」 (チョン・トリオ、参照)。これまで何度も書いてきたが、ミョンフンの室内楽的ピアノが素晴らしい。僕の苦手なチャイコフスキーであるが、説得力を以て聴かせてくれる。この演奏でも、チャイコフスキーの冗長さに閉口させられないわけではないのだが、それも含めてチャイコフスキーを十全に表現していると云えるだろう。かつてキョンファが弟のピアノを褒めているインタビュー記事を読んだ覚えがあるが、なるほどである。指揮者としてのミョンフンはよく知らないのだが、これから当然聴くことになってくると思う。■チャベスシンフォニア・インディア (バーンスタイン NYPO 1961)。チャベスはよく知らないが、何だか日本の作曲家が書いたみたいな音楽である。おもしろい。
2016年冬_26
ベルクソン『笑い』の新訳を読む。どうもピンとこないな。ベルクソン先生、笑いを考察するには、マジメでお上品すぎるのではないか。例えば日本語で「屁」といえばそれだけでどこか滑稽だが、それってベルクソン先生の理論で説明できるのかしらん。「屁」が「こわばりのおかしみ」(笑)? だいたい「こわばり」ってのでどうもエロいものが連想されるが(笑)、こういうエロスのもたらす下品な笑いも、ベルクソン先生には説明できそうもない。僕は町田康を読んでゲラゲラ笑うのが好きなのだが、これもベルクソン先生の苦手分野だろう。それから、ちょっとマジメな話に戻すが、『笑い』の旧訳者である林達夫が解説に書いていたように、笑いの典型とされる、優越感を覚えた対象に対する笑いや、またいわゆるラブレー的哄笑も、ベルクソンの扱っていないものであろう。もっと云えば、安永祖堂老師は、禅をして笑いの宗教だと喝破した。これなどは、ベルクソンには手も足も出まい。等等。
 まあしかし、あんまり意地悪なことは言うまい。前述の林達夫の言うとおり、本書はベルクソン理論の手軽な応用という側面があるだろう。それゆえにまた、自分の理論への適用を思うあまり、ベルクソンが硬直していることは確かにあると思う。しかし、少なくともフランス喜劇には、(それは自分のよく知るところではないが)上手く当て嵌ってはいるようだ。とにかくベルクソンの出発点は、バナナの皮で滑ってころぶという類の古典的な話なのだから、素朴なのは仕方あるまい。しかし、皆さんはこれで笑えますかね?
 それから、ベルクソンが例に挙げていて思い出したのだが、ドン・キホーテって笑えますかねえ。僕は笑った記憶は全然ないが、悲しかった覚えはかなりある。ドン・キホーテは崇高な人間なのに、誰もそれを認めず、皆んなに笑われてばかりいる。そのうち、ドン・キホーテは自分の頭を疑うようになって、最後は非常に悲しい死に方をする。僕にはどうも喜劇なんだかわからないのですが。
2016年冬_31
Ruby で「キュー」を勉強してみる(参照)。キューは「待ち行列」とも云う。