関川夏央『石ころだって役に立つ』

晴。
図書館から借りてきた、関川夏央『石ころだって役に立つ』読了。表紙(何だこれは)からは想像できない、貧乏くさい文章たちが収録されている。関川夏央らしく、評論のような文章があり、自嘲があり、フィクションありのごった煮である。フィクションなのかノンフィクションなのかわからない文章も関川らしい。僕はあまり「人生派」ではないが、いかにも人生の苦味を描いているようでいて、それは計算ずくのようにも読める、関川独特の仕掛けははっきり言って好きである。著者の姿のように見える中年のわびしい男も、またその自嘲も、どこまで本気なのかわかったものではないのである。本書は、高度成長期に関するまことに貧乏くさい話に満ちているが、著者の精神はちっとも貧しくない。本書には「自分は読書が好きなのであろうか」という一節があり、そうではないというのが著者の答えで、本書全編にわたって己の教養主義を苦々しく語っているが、その恥ずべき教養主義のおかげで著者の強靭な文体と博識が読者を喜ばせるのだから、なかなか愉快なことである。いつも云うようなことで我ながらまたかと思うが、こういう煮ても焼いても食えないしたたかな文学者は、最近では滅多に見ない。あんまりにも人がよい人たちばかりなのだ。
 個々の文章には触れないが、須賀敦子について語った文章はちょっと意外ではあった。須賀は美しく清冽な日本語の書き手であったが、基本的にきれいなものをきれいに書くだけで、危険なところの殆どない、無害な文章家であった。関川のようなひねくれた、含みの多い文学者の好むところではないような気がしたのである。もっとも、ここで関川が語る須賀は、文章家としてのそれではない。関川は、須賀の文章は彼女の生前にはあまり読まなかったと述べている。関川によれば、須賀の普段のしゃべりは意外にも伝法なそれであったようで、自分は驚いた。須賀もまた該博な文学的教養をもっていて、関川と親しくしていたようであるのも、彼の実力を認めた故のことであったと思われる。