近所ノ肉屋ノツブレタルコト/アイザィア・バーリン『自由論1』

晴。
音楽を聴く。■ショパン即興曲第一番 op.29、第二番 op.36、第三番 op.51、幻想即興曲 op.66、ボレロ op.19 (ルービンシュタイン)。即興曲ショパンの中ではマイナーではないが、それにしては録音があまりないような気がする。ポリーニアルゲリッチも録音していない筈だ。ルービンシュタインは自分としてはあまり聴かないピアニストなのだが、ホロヴィッツなどよりはよほど気になる。それがどうしてなのかは、なかなか言語化しにくい。ルービンシュタインホロヴィッツと同じで、聴衆を力でねじ伏せることを好む演奏者であり、それ故アンチも多いわけだが、ホロヴィッツは徹底的にすべてホロヴィッツ流にしてしまうのに対し、ルービンシュタインは音楽を大理石の彫刻のように正確に切り出してみせるところがある。そのあたりのちがいが気になるのだろう。これからもルービンシュタインは少しづつ聴くと思う。なお、これからルービンシュタインを聴く方は、安い BOX を買われたらよい。

The Rubinstein Collection Vol. 47 (Chopin: 14 Waltzes, Impromptus)

The Rubinstein Collection Vol. 47 (Chopin: 14 Waltzes, Impromptus)

Arthur Rubinstein Plays Chopin

Arthur Rubinstein Plays Chopin

モーツァルト:ヴァイオリン協奏曲第一番 K.207 (イツァーク・パールマンジェイムズ・レヴァイン)。これはいい演奏。自分の足らないところでもあるし、残りが楽しみである。なお、どうでもいいが、アマゾンのレヴューに、評論家気取りで聞いた風なことを言っているひどいのがあって、音楽など勝手に聴けばいいとは言い条、知ったかぶり君というのはいるものだと思う。
5 Violin Concertos

5 Violin Concertos

スクリャービン:法悦の詩 op.54(ブーレーズ参照)。これは驚いた。今まで聴いてきた演奏よりもぐっと解像度が上がったように聴こえる。スクリャービンは感覚的に大好きなのだが、もう少し分析的にも聴かないといけないかなと思った。しかし、感覚的な美しさがないわけではないので、誤解なきよう。そこがブーレーズである。

大ショック。これまでウチで食べていた肉類は、近所のスーパーの肉屋で長らく買っていたのだが、そこが今日でまさかの閉店。スーパーの名前が何度も替わっても、あそこはずっと同じだったので、何だかずっとあるものだとばかり思っていた。家族でやっておられ、まだ若い娘さんが手伝ったりもしていた。はっきり言って、このあたりではいちばん質の高い肉屋で、とにかくあそこのお肉は、牛も豚も鶏もどれも安くて美味しいと言うしかないものだったのだが。母が今日訪れてわかったので、母が驚くと奥さんは半泣きだったそうである。確かにあそこのスーパーは、近くに東海地方の某チェーン店と全国的なチェーン店が出来たせいもあり、もともとウチの近所はスーパーは過当競争なので、経営はキビシイ筈ではある。少なくとも、客で大賑わいという感じでは到底ない。
 しかし、本当におかしいと思う。最近しょっちゅう思うことではあるが、今は様々な分野で、安くて質が高くても、個人でやっている(チェーンではない)というだけで生き残れなかったりする。そんな例が、あまりにも多すぎる。食べ物屋でも、ウチの近くは近年発展途上でもあり、過当競争になっているが、安くて美味しい店が必ずしも繁盛していないのである。流行っているのは、ちょっとオシャレっぽく、何となくお得感がある(安いわけではない)というタイプの店が多い。まあ、自分の感覚、自分のような人間が時代遅れであることは承知しているが、ここでも負け犬の遠吠えをしなくてはならないとは。
 こうなっては、多少高くてもある程度のクオリティがある店を探さないといけないのだが…。本当に今はグルメの時代なんだろうか。食べログが栄え、皆んな美味いものに目がない筈であるが。別にウチはグルメでもなんでもなく、お金はあまりないが美味しいものは食べたいというだけのことなのに。某巨大チェーンのスーパーの品物など、割と安いがよく皆んなこんなもので満足していると思わせられる。ってこんなことを書いてもしかたがないのだが、つい書いてしまった。阿呆であろう。

図書館から借りてきた、アイザィア・バーリン『自由論1』読了。どういう頭のいい人だ。自分にはしんどい。しかし、言っていることはそれほど難しいことではない。決定論は行動の原理と矛盾するというのは、当り前みたいなものである。例えば人の行動がすべて前もって決定されているとすれば、責任という概念は成立しない。これは決定論が真実かどうかとは無関係で、いずれにせよ我々は自らの選択で主体的に行動するというようにしか生きられないのである。以下続巻。
自由論〈1〉 (1971年)

自由論〈1〉 (1971年)

現代の日本人に責任を取るという感覚が乏しいのは、日本人の主体性の弱さと関係があるというのは、上のコロラリーであるが、これ自体は陳腐なまでの紋切り型ですね。まあ正しいのだろうが。僕は、自分が主体であるという感じがあまりしない。何だかボーッとしているような。

『On Lisp』を Lisp の入門書と間違えて借りてきた。すぐに間違いには気づいたが、Rubyist としては何ともおもしろそうである。よくわからないながら、つい第三章まで読んでしまった。Common Lisp の基礎を勉強してから、もう一度読み直してみよう。
 ちょっと検索してみたのだが、Lisp は初心者はやらないと思われているのか、日本語の初心者向けサイトはあまりないですね。まつもとさんは、Lisp の不人気ぶりは大変なものであると仰っていたが、そうなのかなあ? まあしかし、(超)基本的な言語仕様はそんなに複雑でないようだが。仕事場で暇な時間に勉強したくらいで、だいたいわかったような気がしている(だけ?)。でわかったのが、これは何か処理系をインストールして動かしてみないとどうしようもない。これはシンプルだが、ふつう(?)の言語と全然ちがいますよ。ただ、Ruby をやっているので、ははあと思うとことはちょっとあるような。しかし、Lisp ってまさに関数型とはちがうの? 手続き型っぽくも書けるようだが、Lisp は関数型だと思い込んでいたのだが。というのは、Lisp で関数型っぽく書くみたいなサイトがあったのだが、そこではわざわざ関数型で書くやり方みたいな記事だったので、混乱した。まあ、こちらの読解力が乏しいからであろう。

Lisp についてぐぐっているうち、小飼弾さんの有名なブログにハマりました(プログラミングに関するところだけ)。自分にはわからないことが多いが、めちゃおもしろい。一流プログラマってのはすごいもんだと、最近つくづく思う。まあ、中年からプログラミングを始めたおじさんとしては、雲の上のような人たちだ。でも、本当にプログラミングはおもしろいのだよね。好きになれる言語に出会った人は、幸運だと思う。別ブログで下手なコードを晒しているが、楽しいです。Ruby でも、未だに初心者本を参照するくらいのヘボですが、自分の力はそんなものだと思っています。僕は、数学をやっているとき、数学の世界は無限だと感じるが、プログラミングもそれに近いものを感じる。じつはプログラミングは、数学の一分野でもあるのですよ。ゲームで遊んだりネットを見るだけが、PC の世界ではないです。もっと奥があります。これから先、この世界の奥はもっと深くなっていくと思います。
ああ、夜更しした。(AM3:23)