集英社文庫ポケットマスターピース『カフカ』

曇。
早朝出勤。これも今日でお仕舞い。
久しぶりにグールド(バッハのトッカータ集)やブレンデルシューベルトの D946)のピアノを iPod で聴く。ブレンデルはどうも凡庸な気がしていたが、意外と得るところがあってよかった。D946 が好きという人は見かけたことがないが、僕は好きである。

集英社文庫ポケットマスターピースカフカ』読了。多和田葉子編。これは読んでよかった。最近の読書では一番の充実。以前読んだものでも忘れていたりして、実際「訴訟」はかつて読んだ筈だが、門番の寓話とラスト以外はまったく覚えていなかったりした。一方で「変身」や「流刑地にて」、「お父さんは心配なんだよ」(という題はないと思うが)、「巣穴」などはよく覚えていたが、再読(で済まないものもある)はじつに楽しかった。一番好きなのは「巣穴」で、これは自分の性向と深い関係があるにちがいない。それから、特筆すべきは「公文書選」であろう。カフカが官僚であったことは有名だが、まさか官僚として書いた文章が読めるとは。これがまたおもしろくて、カフカだからおもしろいのか、それとも公文書というのは文学としておもしろいものなのか、これまで公文書を読んだことも書いたこともない自分にはわかりかねるけれども、とにかく一読を勧めたい。編者多和田葉子自身によるいくつかの翻訳もどうも曲解に満ちたもののようで*1(というのが曲解かも知れないが)、じつにユニークである。編者解題も自分にはよくわからないけれども、多和田葉子氏の(文学的な意味で)奇妙な日本語を読むのはそれだけでひとつの体験だ。この「ポケットマスターピース」のシリーズ、この後も楽しみである。

一般的な傾向の話だが、いまどきの文学の翻訳の文章は、いわば「即物的」に感じられるものが増えてきていて、それが却っておもしろいばかりか、むしろこちらが本来の姿かと思われることがある。かつての「文学的な」翻訳の文章は、もしかしたら過剰に化粧を施していたということがあったのかも知れない。(カフカなら、例えば池内紀訳など。)

*1:勝手な想像であるが、例えば「生け贄にできないほど汚れた動物或いは虫」という衝撃的な注記は、辞書にそう載ってはいるけれどもというレヴェルの一種の意図的な「誤訳」なのではないか。それから、散文詩のような趣すらあったこれまでのカフカの日本語訳に対し、多和田訳は(比喩を弄させてもらえば)電化製品のマニュアルのような日本語になっていて、これがまたユニーク極まりない。不愉快感すら覚え、これもまた(あまりにも正統的な)文学なのだと思う。