高橋源一郎『退屈な読書』

晴。
音楽を聴く。■モーツァルト:ピアノ協奏曲第十二番 K.414(内田光子、テイト、参照)。■テレマン:序曲ト短調 TWV55-g2 (ペイエ、コレギウム・インストゥルメンターレ・ブリュヘンセ、参照)。■ヴァヴァルディ:ヴァイオリン協奏曲集「四季」〜第四番「冬」(チョン・キョンファ、セント・ルークス室内合奏団、参照)。超絶技巧。■シューベルト交響曲第八番 D759 「未完成」(バーンスタイン NYPO 1963)。

何も言えなくて…夏 Lyrics」とか「ロビンソン」とか聴いてた…。古すぎるな。J-Walk は何度も聴くと鼻につくけれど。「ロビンソン」はわかるようなわからないような不思議な歌詞で、一応ラブソングなのかな。これはいい曲ですね。
図書館から借りてきた、高橋源一郎『退屈な読書』読了。十五年以上前の本。源一郎さんは今の僕よりも歳が若い。その頃でも、やはり源一郎さんで、僕には圧倒的におもしろいのだ。源一郎さんは、本質的にはマジメなのだけれど、態度がテキトーなので嬉しい。一昨日話題にした山形さんなどはマジメすぎるので、僕にはしんどいのである。しかしまあ、「態度がテキトー」と云うのは拙い言い方で、どうもなかなかうまく言えない。まあ、多くのマジメな人は、本書を読んだら「ふざけてる」と思って、嫌な気分で本を閉じるかも知れない。一方、小難しい本を読むことを自慢したいような人は、高橋源一郎などヌルくて、一顧だにしないであろう。さて自分はどうかと云うと、僕には源一郎さんは、酸素が少ないところの酸素ボンベみたいな人である。僕が好きなのは吉本隆明さんや中沢新一さんのように評判が悪い人ばかりなので、息をつけるところが殆どない。それにしても、このころでもすでに源一郎さんは源一郎さんだったのだと思うと、この人はこの人なりに一貫していると感動する。これだけの「教養」を持ちながら、マンガも競馬もアダルトビデオもじつに自然体で、いや実際にふつうにやっている。かと思えば、文学の話も自然体で、これは当然ふつうに語れる。これがいいのだなあ。自分などは、ここまではちょっと諦めてしまう。見栄がありすぎるのだ。いま思うのは、とにかく源一郎さんみたいに、「小説よりおもしろいものはこの世に存在しない」という境地に近づきたいということ。精神の探求が一括して「オカルト」と呼ばれてすべて不可能になった今、公的に心に近づくのは小説しかないような気がするからだ。小説にはまだ、危険な力がかろうじて残っていると思う(そう願いたい)。いま、我々の身近から危険を取り除いた結果、マージナルな領域で恐ろしい不合理が跋扈している、大変な時代になった。中東が絶望的な戦乱に覆われ、先進国ではすべて徹底した管理社会が実現しつつあるのも、じつはそれと関係がないわけではないのだ。って源一郎さんからちょっと話を広げすぎたきらいがあるが、源一郎さんにはしかしそれにふさわしい射程があるのである。これがわからない人には、「まだまだだなあ」と言ってあげましょう。ま、本書は楽しい本ですけれどね。十五年以上前は、今と比べれば楽園のような時代だった。

退屈な読書

退屈な読書

経済学は必要である一方、経済学至上主義と全体主義はどこか親和性があるような気がするが、気のせいであろうか。まあ当てにならない印象なので、よく考える必要がある。それから、「新自由主義」のどこに自由があるのか。金銭=権力の絶対支配そのものではないのか。

あるところを見ていたら、Windows XP マシンでは最新の Linux の使用はむずかしいらしい。自分の経験でもそうである。少し前のエディションを使うしかないようだ。Vista マシンなら大体いけるようで、これも確認済。Vista 機で最新の OS を走らせるのは結構いい気分である。しかし、よく中古 PC で古いマシンに Windows 7 が載っているのを見るが、あれって元は XP なのだろうか。そうだとすると 7 ってのは柔軟なのだな。
 ウチの PC の話だが、二台の Vista 機が長年の Windows Update とウィルスバスターだけで HDD の容量不足に陥ってしまった。まだ Vista のサポートは終わっていないのに、ヒドい話だと思う。あまり PC を知らない人には、殆ど欠陥商品に近いのではないか。で、母の Vista 機で Linux Mint を使えるようにしたわけだが。Windows の Dドライブって要らないよね。積極的に邪魔である。