坂口恭平『家族の哲学』

曇。
音楽を聴く。■バッハ:ブランデンブルク協奏曲第六番 BWV1051 (サヴァール参照)。■シューマン:ピアノ協奏曲 op.54 (ケンプ、ヨーゼフ・クリップス参照)。終楽章が好きな曲であることを再確認。■シューベルトピアノ曲集 D946 (アラウ、参照)。第一曲と第二曲は、シューベルトが書いた中でも最上の部類に入る名曲。意外と知られていないような気がするけれど、素晴らしいですよ。第三曲はちょっとわからない。■フリードリヒ・クーラウ:ソナチネ op.88-2, op.88-3, op.88-4 (ヤンドー、参照)。三流作曲家のおもしろさ。■エルガー弦楽四重奏曲ホ短調 op.83 (Music Group of London、参照)。ブラームス風にも聴こえる保守的な音楽。でも、マイナーでおもしろいのだな。エルガーはもう少し聴いてみよう。
左、御所柿。右、富有柿。あんまり変わらないか。もぎたてなのできれいじゃないです。御所柿の方はあまり知られていないのだが、おいしい。ちょっと傷みやすいので出回らないのだな。
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今日は仕事がなかなか大変だった。

図書館から借りてきた、坂口恭平『家族の哲学』読了。特異なアーチストであるとも云うべき著者は、激しい躁鬱病を患っている(と書いていいのかわからないが、とりあえずそう書いておく)ことを以前から公言しているが、本書はその「病」のあリ様を赤裸に綴った「小説」という体裁になっている。自分にはどこまでが現実の描写なのかわからないが、躁鬱病の一例はこのようなものかとは思った。正直言って、読むのがかなりしんどい本である。鬱状態の著者はひたすらネガティブで、徹底した自己否定と自殺念慮に囚われている状態が延々と描かれていて、気が滅入ってくる。題名にもあるとおり、本書は著者とその家族である、奥さんと二人の子供たちとの生活の記録という形になっているが、奥さんである「フー」が、著者を扱う仕方がすごい。大変な状態の著者を徹底的に肯定し、受け入れて、しかも鬱の著者には淡々と接することを已めない。子供たちも、病的な状態である著者が日常生活の一部になっていて、それほど気にしていないようなのだ。
 我々は簡単に精神病だとか神経症だとか言い、それらは確かに「病的」な状態ではあるのだが、そもそも人間の心というのはすぐに病んでしまうように出来ているのである。「正常」であるというのは、運がよかったにすぎないのであって、仮にいま「正常」であるとしたところで、状況が変わればそうでなくなってしまうのは、誰にでもあり得ることだ。そして、「精神病者」だって、基本的に別にふつうの人なのである(「正常人」こそが、異常なことをやらかすのだ。ナチスアイヒマンの平凡さを思え)。そういうことは、学校などできっちり教えておくべきだ。また、精神的な「病を患っている」としても、すべてを十把一絡げにしてしまうことはできなくて、「病」のあり方も、それぞれの人に個性があるように、千差万別なのである。一般に本書が読まれて、躁鬱病への正確な認識が少しでも広まることになれば、よいことだと思う。

家族の哲学

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