はてなダイアリーの記事をランダムに表示/田中一郎『ガリレオ裁判』

雨のち曇。
朝寝坊。
音楽を聴く。■バッハ:ブランデンブルク協奏曲第二番 BWV1047 (サヴァール参照)。■ショパンノクターン第一番 op.9-1、第二番 op.9-2、第三番 op.9-3、第四番 op.15-1 (ピリス、参照)。■ベートーヴェン交響曲第五番 op.67 (サイモン・ラトル参照)。元気でスケールも大きい、それなりの演奏だろうとは思うのだが、自分とはまったく相性が悪かった。新鮮味が乏しく、30分間苦痛だった。オケもヤケクソという感じで、そう書いてなければとてもウィーン・フィルだとは思えない。これだけ我慢したのは久しぶり。
昼から県営プール。
2015年晩秋_20
遊びで、「オベリスク備忘録」の記事をランダムに表示させるページを作ってみました(こちら)。ひと月分、15日分のどちらかを選択できます。ひと月分の方は読み込みに相当時間がかかるので、15日分の方がよいでしょう。メインの処理は JavaScript でやっています。はてなダイアリーで script タグが使えれば、わざわざ別のページにしなくてもよかったのだが。
 自動でジャンプするリンクはこちら

田中一郎『ガリレオ裁判』読了。ガリレオ・ガリレイが宗教裁判に掛けられ、意に染まずして天動説を信じることを強要されたとは、よく知られた話である。宗教の頑迷固陋を象徴するような意味合いも持たされる事件であるが、さて実際のところはどうだったのか。近年になって重要な資料が公開・発掘され、ガリレイ裁判の実際のところが見えてきたというのが本書の内容である。まあ細かいところは実際に本書をお読み頂くとして、結論から言うと、確かに宗教は聖書の権威に対して科学を認めなかった。それは殆ど当然のことであって、科学を宗教の上に置くことは、当時の世界観そのものが崩壊してしまう危険性があったのである。だから、宗教の「頑迷固陋」は不思議なことではなかったし、そもそもガリレイ自身がそのことをよく知っていて、裁判では「異端を信じたことはないし、地動説は誤っている」とすら発言しているのだ。ここで思うべきは、当時の宗教裁判とて、現代の裁判同様にまったく恣意的であった筈がなく、裁判上の「技術論」、テクニックが重要であったことである。実際、教会側は簡単な罪をガリレイに認めさせることで、裁判をあっさり終わらせてしまうことができたし、その可能性の方が高かった。ガリレイは自分なりの見通しがあって、裁判に関してはあまりにも楽観的であり、「技術的な」ことで大きなミスをたくさんやらかしている。それが大きい。もちろん法王の激しい怒りというものも確かにあって、法王はガリレイの主張の危険性をよく認識していたし、だいたいガリレイが不誠実であると考えていた(それは恐らく正しいようだ)。ガリレイは法王と親しい仲だったので、法王の怒りは予想外のことだったようである(であるからして、たぶん関係のないイエズス会の陰謀を疑っている)。少なくとも、「科学のための闘士ガリレイ」というイメージは、随分と修正される必要があるだろう。ちなみに、「それでも地球は回っている」というガリレイの有名なセリフは、18世紀が初出の、まったく根拠のないものらしい。以上のことでも科学者ガリレイの偉大さはまったく変わらないが、そのイメージは後世の付加によるものが大きいということである。

ガリレオ裁判――400年後の真実 (岩波新書)

ガリレオ裁判――400年後の真実 (岩波新書)

へー、集英社文庫で「ポケットマスターピース」なんてシリーズが出始めたのか。これは知らなかった。初回はゲーテカフカだって。次に本屋へ行ったら確認しよう。