フランクリン・パーキンズ『ライプニッツ』

晴。
音楽を聴く。■ブラームス弦楽四重奏曲第二番op.51-2(アマデウスQ)。ブラームス弦楽四重奏曲というと、自分は第一番をまず聴きがちなのであるが、どういうわけか第二番が聴きたくなった。ブラームスの古臭さが自分に合っているのかなあなと思う。アマデウスQは意外にシャープだった。

The String Quartets/Dvorak: Quartet, Op. 96

The String Quartets/Dvorak: Quartet, Op. 96

クララ・シューマン:音楽の夜会op.6、即興曲ト長調「ウィーンの思い出」op.9、ピアノ・ソナタ ト短調(オイゲニーエ・ルッツ)。クララはもちろんロベルト・シューマンの妻であり、また有名なピアノ奏者であった。このディスクは、クララ自身の使ったピアノで録音されたようである。作曲家としてはクララはリストが賞賛したようで、なかなかの才能があったと云われることも多いが、自分には明らかに三流の作曲家だったようにしか聴けない。とてもロベルトや、親交の深かったブラームスと比べられるような存在でないのは間違いない。といってしかし、三流の作曲家を聴くのがつまらないかというと、まったくそうではないのである。これが例えばロベルトの曲とどこがちがうのか、考えてみるのはとても興味深いことである。才能というのはいったい何なのか。問うても答えの出ない問いだとはわかっていても、問わざるを得ない、芸術の不思議さがある。
クララ・シューマンのピアノ(Clara Schumann's Piano)

クララ・シューマンのピアノ(Clara Schumann's Piano)


いまライプニッツの解説本を読んでいるのだが、(これは以前からのことだけれども)まったく理解に苦しむ。モナドの間には相互作用がなく、各モナドは全宇宙を含んでいる。それではモナド A とモナド B が人間である場合、A が B を殺したらどうなるか。モナド A は全宇宙を含んでいるのだから B を殺すことができるが、そうしたとして、モナド B には影響がない。A と B の間には一切の相互作用がないのだから。これは矛盾である。もしかしたら自分のライプニッツに関する理解が間違っているのかも知れない。こんな矛盾は誰にでもすぐ考えつくから、たぶん間違っているのだろう。
 恐らく、モナドを人間として捉えたのがおかしいのだろう。そうではなくて、人間は多数のモナドの集合体ということなのだろう。それで云うと、臓器や細胞もモナドではあり得ない。そうしてしまうと、個体レヴェルと細胞レヴェルを区別する理由がわからなくなる。例えば単細胞生物というものが存在するので。そうするとやはり、モナドは現代物理学でいう原子・素粒子クォークのようなものであろうか。とすれば、モナドジーの現代的意義は存在しないことになる。ライプニッツの実体概念は、ことごとく(特に)量子力学に反するから。例えば、同種の量子は互いに区別できない。これは統計的事実から導かれる。しかるにモナドは、個性を持っているのである。そしてさらに、相互作用を拒否しているのも致命的だ。また、量子に大きさはない。これもライプニッツの批判が成り立たないことを示す。ライプニッツは点状の粒子を認めないからである。
 たぶん、モナドは原子でもクォークでもないのであろう。しかし、とすると、自分にはモナドが何なのか、さっぱりわからない。例えば、肉体を表すモナド、「私」という精神を表すモナド…。これって何なのですか? モナドの階層…? 肉体を表すモナドと精神を表すモナドは相互作用がないので、ここでも「殺す」ということはどう説明されるのか。精神が「殺す」としたところと、肉体の崩壊は単に並行現象であり、何の関係もないとライプニッツなら言うであろう。しかし、これって極めて無理があるよね。と自分は思うのだが。ライプニッツの言うとおりなら、ナイフで刺して浴びた返り血の飛沫の知覚は、単にそう「見える」だけのことで、相手の肉体の物理的な傷とは関係がない。でもこれって、説明になるの?
フランクリン・パーキンズ『ライプニッツ』読了。本書を読んでの妄想は、上に記したとおり。結局、全能の超越神などというものを考えると、事態がどれくら紛糾するかをライプニッツの哲学(あるいは神学)は物語っているような気がする。決しておもしろくないことはない。こういう屁理屈を考えることで、キリスト教世界は徹底して精緻な議論、さらには科学まで生み出したのだ。屁理屈恐るべし。
知の教科書 ライプニッツ (講談社選書メチエ)

知の教科書 ライプニッツ (講談社選書メチエ)

ライプニッツはあまり文庫本になっていないのだよね。岩波文庫に数冊。どうしてなのだろう。解せないな。