玄侑宗久『仙厓 無法の禅』

晴。
いい加減、明け方まで起きているの、止めないと。
音楽を聴く。■ラヴェルボレロ、スペイン狂詩曲、ハバネラ形式の小品、亡き王女のためのパヴァーヌ(レナード・スラットキン、参照)。朝一でボレロとか、なんだよと思われる向きもあるかも知れないが、何でしょうね。スラットキンのラヴェルは、自分に不思議と相性がいい。たぶん他の人が聴けば、そうすごくもない、極普通のラヴェルだと思う。

玄侑宗久『仙厓 無法の禅』読了。本屋に行くと仏教の本はたくさん出ているけれども、本物が殆どないことがなかなか気づかれていない。玄侑さんなど、小難しい仏教本を有難がっている人には、何ほどの者とも思われないであろう。ホント、ダメだなあと思う。こういうのを侮って、偽物を有難がっていてはね。
 まあそれはともかく、僕は玄侑さんが好きなのである。有難い存在なのです、僕には。
 それにしても、日本人の東洋がわからなくなったのは、今や当り前になった(僕がいうのは、関係性をベースとする東洋的思考法のことである)。で、西洋も中途半端にしかわからない(徹底的に第一原理からの構築をすることはない)。エアポケットに落ち込んだような、むずかしいところにいると思う。でもここから始めるしかないのだが。

仙厓(せんがい) 無法の禅

仙厓(せんがい) 無法の禅


岐阜。「箱物」づくりばかりで、人づくりがない。人材がいない。文化ってあるの? そう云えば、長良川鵜飼の鵜匠たちが、河口堰の開門調査を求めたらしい。鮎の数は、河口堰建設前の一〇分の一になったとも云う。鵜匠たちも、カネをわたされて口を噤んできたが、とうとう限界になったか。自業自得である。もちろん、鵜飼を見に来る観光客は、関係者たちの様々な努力にもかかわらず、減り続けている。
 岐阜県でも飛騨は少しちがうかも知れない。だいたい高山が岐阜県だと知っている人が、どれくらい居るか? 白川郷岐阜県だけれど。美濃は、大垣の方とか東濃は、まだ文化のある感じがするな。各務原? どこそれ。
 しかし、岐阜県の有効求人倍率は、いつも全国的に高い(先日の調査では全国で第三位だった)。特に産業があるとも思えないが、やはり愛知県に近いからだろう。トヨタなんかの、下請けですよ。それから、意外と喫茶店や外食にあぶく銭を使う風習のせいかも知れないと、自分は睨んでいる(外食にカネを使うのは、岐阜市が全国で一、二位を争っている)。余計な金を使って経済を回したほうが、景気にはいいに決っている。ウチの近所でも、食べ物屋の多いこと、また繁盛していることといったら。昼どきなど、ある種の食べ物屋はオバサン連中でいっぱいである。皆口コミでホントによく知っている。まだまだネットは口コミに敵わないくらい。
 おもしろいのは、安くて美味いところがいちばん流行っているわけではないこと。そこそこ美味しくないといけないことは確かだが、味などはいくらでも誤魔化せる。まず、お得感、お値打ち感があるか(多少高くてもよい。むしろ安くてはいけない)。あと、小ぎれいで多少おシャレっぽいか。とにかく暇なオバサン連中を如何に取り込むかである(彼女らはグループで来るので、お互いに「ちょっとこれイイねー」って言わせること)。しかし、ダンナは昼ごはん、どうしているのか。それは恐ろしすぎて、ここでは書けない。
 どうでもいいことを書いているな。