雨宮昭一『占領と改革』

曇。
音楽を聴く。■テレマン:序曲ニ長調TWV55-D17(ペイエ、コレギウム・インストゥルメンターレ・ブリュヘンセ、参照)。■ベートーヴェン交響曲第八番op.93 (ベーム)。思ったよりよくないな。しかし、たぶんベームベートーヴェンも悪くないのだと思う。リスペクトはすべき。

Symphony 6 7 & 8

Symphony 6 7 & 8

ショパン:ピアノ協奏曲第一番op.11(マウリツィオ・ポリーニパウル・クレツキ、フランス国立放送管弦楽団)。ポリーニは一九六〇年のショパン・コンクールにわずか十八歳で優勝するが、この演奏はその二ヶ月後のパリでのライブ録音である。御存じの方も多いであろうが、ポリーニはこの曲を DG で正規録音していない。これまでは、ショパン・コンクールの直後に、同じクレツキの指揮で録音していた EMI盤があり、既によく聴かれてきた。この録音だが、殆ど正規録音に匹敵するクオリティだと思う。演奏の質はまず措いて、音質が非常にいい。ポリーニの特徴のある輝かしい音色は、この頃からのものだったことがよくわかる。演奏も七〇年代の正規録音たちと同様、まるでミケランジェロの大理石の彫像のように完璧なものだ。一〇代で既にこれだとすると、もうこれ以上進みようがない感じである。この曲は恐らくショパンの最初の傑作であり、ショパン一〇代の作曲に係る筈であるが、これを一〇代のポリーニが弾くとは! 歴史上でも稀有のことではあるまいか。ただこれ、古典は誰にでもわかるわけではないという意味で、万人向けとは云えないかも知れない(不遜な言であることはお許し願いたい)。特に、今のようなふやけた時代では、このような高みは理解されないと考える方が適切かも知れない。やはり、時代というものはあるものだと思う。そして、ポリーニはここから一〇年間沈黙したのだった。その後の活躍は、これ以上申し上げる必要はないだろう。
図書館から借りてきた、雨宮昭一『占領と改革』読了。少しずつ勉強しようと思う。読んでいると、自分の無知がわかって仕方がない。本書のライトモチーフのひとつは、「アメリカが占領してくれてよかった」「ラッキーだった」という、云わば「ラッキー史観」が本当に正しかったのかという問題の検証である。まあその辺のことは自分には判断できないのだが、色々と目を開かされるような事実に突き当たったのは確かだ。例えば、太平洋戦争末期における指導部の、「反東条連合」の勝利が、戦争の帰結と戦後の展開を大きく決定づけたということ。「反東条連合」(これは吉田茂にまでつながる)の勝利がなければ、敗戦の受諾は速やかにはなされず、本土決戦に突入し、恐らく日本は分割統治されることになったであろう(そして、朝鮮半島の分割はなかった可能性が高い)。著者はこれは本当に「ラッキーだった」のかと問うているが、自分にはこれはさすがに「ラッキーだった」のではないかと思うのだけれども。
 まあそれはともかく、憲法第九条を GHQ が導入させたのは、天皇制の存続と引き換えだったというのも、ちょっと驚かされた。その背後には、昭和天皇を処刑すべきだという、アメリカの世論の問題があったようだ。果たして今のアメリカは、憲法第九条を廃止するなら、天皇制も廃止せよと言うのだろうか。たぶんそこは、アメリカも変化しているような気がするけれども、実際のところはわからない。
 それから、吉田茂は本当に大政治家だったのかということもある。本書からに限らないが、吉田茂はかなり場当たり的で、決った「ポリシー」がなかった*1ような、そんな政治家に見える。ただ、GHQ 内部の主導権争いを利用するような、政治的駆け引きには熟達していたような感じだ。これは本書からは外れるが、朝鮮戦争時、アメリカからの要請を受け、吉田茂は機雷掃海になんと海上保安庁を出動させることを決めてしまう。これは驚くべき、酷いことで、海上保安庁は軍隊ではないから武器を一切もっていないのに、最前線に出されたのだ。そして、現実に「殉死者」(軍隊ではないから「戦死」ではなく)を一人出している。しかし、それは極秘に行われたことなので、その「殉死者」の存在が知られるのは、遥か後のことになるのだ。自分はこういう政治家は、「正しい」かどうかは別として、あまり好きになれない。何となくチャーチルを思い出させる。チャーチルは「大政治家」と云われるが、目的のためには手段を選ばない政治家だったし、はっきりとした人種差別主義者でもあった。
占領と改革―シリーズ日本近現代史〈7〉 (岩波新書)

占領と改革―シリーズ日本近現代史〈7〉 (岩波新書)

それから、本書には GHQ の「民主化」政策がなければ、本当に日本の「民主化」は行われなかったのか、という問題提起があるが、そんなことは自分にはどうでもいいことだと思われる。追求したい人は追求すればいいけれど。

*1:というのは西洋語ではあり得ない用法だが。「ポリシー」がないような人間は、西洋では人間とは見做されない。