水村美苗『日本語が亡びるとき』

晴。
また明け方まで起きていた。
音楽を聴く。■メシアン:世の終わりのための四重奏曲(タッシ)。有名な演奏。聴き応えたっぷり。メシアンは本当に実力者だ。

Quartet for the End of Time

Quartet for the End of Time


うどん「恵那」にて昼食。同じものばかり食べている。待ち時間に関川夏央を読んでいたが、あんまりマジメで、最近 PC で下らないことばかりやっている自分には辛かった。そんなにマンガをムキになって論じなくとも、と思ってしまったりする。若い人も(大塚英志東浩紀さん以降)マンガをむずかしく論じているが、何となくしっくりこないところもある。手塚治虫論とかね。僕らの世代は手塚治虫というともう古臭くて、でも読んでみるとなかなかおもしろいという存在だったと思う。マンガは何も考えずに読んできたし、却ってそうでないと違和感がある。まあ、最近では海外や他の色んな問題があって、どうしても「文化」としてマンガを「論じる」ということが必要になるのだろうが。とにかく、僕らがマンガの黄金時代と共に育ってきたのは間違いない。

Ruby でこういうこともできるのか。

(ar = []) << 1  #配列 ar の宣言と同時に、配列に 1 を入れている
ar << 2
p ar            #=>[1, 2]

Ruby の変数は動的型付けであるが、「強い」それである。必ずきちんと型が決まっているわけだ。さて、動的型付けの言語はチームでの開発に向いていないという話があるが、確かにコンパイル時にチェックが働く静的型付け言語は、ミスが発見しやすいだろうなというのは、自分のような初心者でもわかる。ところで、メソッドなどの冒頭で、

a = ""; b = {}; c = []

などとするのは、型宣言に近いのではないか。また、メソッドなどの先頭に、コメントで引数や返り値の型を書いておくのは、ミスを減らす効果があるのではないかと思ってしまうわけだが。

Ruby で簡単なソケット通信をやってみようと思ったのだが、どうしても「No connection could be made because the target machine actively refused it」というエラーが出てしまう。ファイアーウォールは切ってみたし、TCPServer.open にも "localhost" を付けたのだが。どうしてかわからない。
 以前通信できていたプログラムでも失敗するから、きっと何かがおかしい。
 → 試行錯誤して一応動くようになったが、理由はあんまりよくわからない。また、サーバーとクライアントを逆にしてみたら、こちらは上手くいかない。謎である。コードはここの「テキストファイルの転送プログラム」を扱った部分である。

群論の本を読む。
図書館から借りてきた、水村美苗日本語が亡びるとき』を読む。副題「英語の世紀の中で」。かつて話題になった本なので、読んでみた。挑戦的な題名であるが、本書は結局「日本語」が亡びるというよりは、「日本文学」が亡びるときということであろう。それに気づいて以降は、正直言って馬鹿馬鹿しい議論としか思えず、読めなくなって途中からは「速読」するしかなかった。著者は意図的なのか無意識になのか、「日本語」と「日本文学」を混同させてみせる。そして「日本文学」の終焉なら、例えば柄谷行人などはだいぶ前から公言しているところである。一方「日本語」の終焉とは、まさしく日本人が一人もいなくなるということであり、例えばアイヌ語(いまアイヌ語を「母語」として話す人は、ほぼ存在しないのであろう)に訪れたような歴史が、日本語に起きないという保証はない。しかし、人口一億を超える日本語を話す人々が一人もいなくなる前に、他の国の国民の殆どが滅びていることになりはしまいか。
 著者は明治期の日本文学の高みに比べ、現代の日本文学のレヴェルが低いことを本書の多くの箇所で仄めかしており、そして恐らく著者自身が最後の「日本文学」の書き手であると自負しておられるとしか自分には思えない。もちろ本書の全体は精読できなかったので、その点での判断は間違っているかも知れないけれど。
 では、本書は自分にとって無価値であったか。いや、たぶんそうではないのである。著者の感性の一部は、確実に自分のもっていないものだ。その点で、本書は自分の役に立った。それは確かである。本書を主導する、アメリカが経済的に世界を制覇したから英語が栄える的なライトモチーフは、当り前すぎてどうでもいい。

日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で

日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で