荒川洋治『夜のある町で』/相原勝『ツェランの詩を読みほどく』

晴。
音楽を聴く。■モーツァルト:ピアノ協奏曲第十七番K.453、ロンドK.382(ピリス、テオドール・グシュルバウアー、参照)。第十七番の終楽章がいい。あと、ロンドが特筆すべき演奏。チャーミング。■ブラームス:ピアノ協奏曲第一番op.15(アラウ、ハイティンク参照)。うーん、打ちのめされるような凄い演奏。この曲は我が偏愛の曲で、まさしく自分のために書かれたような気がするくらいである。こういうのは他に、シューベルトの「さすらい人幻想曲」と、シューマンダヴィッド同盟舞曲集、あとは初期の山下達郎くらいではないか。アラウというピアニストについては、自分はどう形容していいかわからない。まずは、ベートーヴェンショパンの両方で名演を聴かせられるピアニストは、殆どいないとでも言っておくか。この演奏には、何の不満もない、というか、それ以上である。ブラームスの青春がいっぱいに詰ったこの曲を、一〇代二〇代の頃と変わらぬ感動を以て聴かせてくれる。ハイティンクも自分にとても合った指揮者。何を聴いてもしっくりくる。申し分ありません。■シューマン:交響的練習曲op.13(ヴァレンティーナ・リシッツァ)。確かに技術的には爽快な演奏と云えないこともない。この曲にそうしたものを求めておられる方は、聴いたらよかろう。しかし、この曲をこよなく愛する自分としては、かなり残念な演奏だった。これは男のロマンティシズムの曲だ(女のロマンティシズムってのは、よく知らないのだが)。だから女には弾けないとはもちろん云わないが、自分にはこの演奏は乱暴すぎる。元気よくお馬でパカパカ走っていくようなのとか、がっくりくる。それに、リシッツァはたぶん聴いたことがないのだと思うが、この曲にはポリーニリヒテルの超絶的な名演があって、どうしても比べてしまうのは仕方がない。リシッツァお得意の技術も、彼らには到底及ばないのは明白である(情感の表現などは、比較にすらならない)。まあそれは仕方ないが、正直言ってリシッツァ、あまりこの曲を勉強せずに弾いているような気がしてならない。細部の詰めがアマいのだ。(でもこれは、プロデューサーもいけない。真剣に聴いている人を欺くことはできないし、却って若いピアニストのためにならない。)才能のあるピアニストとしては、残念な結果。ラフマニノフナチュラルでよかったのだが。

Etudes

Etudes

■フンメル:ピアノ三重奏曲第六番op.83(デリャヴァン、カンマラーノ、マガリエッロ、参照)。一流でない音楽家の楽しみって、不思議だ。「感動」とか「名演」とか、そういうのとは関係がないのだけれど、これはこれで確かにおもしろいのだ。これも名曲ってわけではないけれど、終楽章とかつい「聴いてみてよ」と人に言いたくなるようなものではありませんか? これ、何だろうね。

図書館から借りてきた、荒川洋治『夜のある町で』読了。思ったよりよくなかった。鼻についてきた感じ。何故だろう。やはり自分には文学はわからないのかな。例えば著者の宮沢賢治観は、どうも納得できなかった。僕は宮沢賢治のファンというほどではないけれど、宮沢賢治の文学は「世界観の文学」だとは全然思わない。結局、著者は観念的な人なのだと思う。宮沢賢治の方が、ずっと世界そのものに近い。だから、宮沢賢治が戦争を体験したら、著者のいうように宮沢賢治のダメさがはっきりしたかどうかは、わからないと思う。まあそれはしかし、そもそも無意味な仮定であるが。
 でも、それは自分の違和感そのものではない。僕は著者は、現在の下らなくも卑小な世界に足を突っ込んでいないように見える。そんな偉そうなことが言いたいのなら、取り敢えず2ちゃんねるの世界にでも一年間住んでみたまえ。って何様的に云わせてもらいます。
夜のある町で

夜のある町で

いかんな。ルサンチマンにドライブされているかも。だいたい、荒川洋治をdisるとか、相当のひねくれ者だし。文学通絶賛の人でしょう。マジメな人たちを不愉快にさせてどうするのだ、とも思わないでもない。過去記事では肯定してきたしな。
もし戦争を体験していたら、宮沢賢治は詩や童話を書かなかったかも知れない。荒川洋治は書くだろうな。というか、書くしかない。それは荒川の議論の展開上、不可避である。それはそれで結構。
図書館から借りてきた、相原勝『ツェランの詩を読みほどく』読了。これまで日本語訳されたツェランのアンソロジー、また全訳詩集も読んできたが、あんな読み方なら読まない方がよかったくらいなのがよくわかった。本書は強い集中力を以て読む以外になかった。まだまだこれでツェランがわかったなどとは到底云えないが、とにかく本書を読んでよかったと思う。自分は訳詩を日本語で読むしかないのであるが、その限りでも極めてゴツゴツした詩たちである。訳詩を読み、解説を読むと、ハンマーでぶん殴られるような体験の連続であった。というか、文学的比喩は弄したくないのであるが、何と言っていいのかわからないのだ。しかし、アドルノではないが、ここには一篇の抒情詩もない。(あのアドルノの有名な言葉「アウシュヴィッツ以降…」に対しても辛辣だったくらい、ツェランは手厳しかった。)死と絶望が充満している。ポジティブな方向が向かれることもあったが、最終的にはツェランは自殺することになる。ツェランの詩が難解であるのはある意味当然で、よくぞここまで読み解けたものだという感想を抱かざるを得ないが、これも余計な言葉かも知れない。著者は一歩一歩、ゆっくり石を積んでいくように書いている。しかしここには希望はないようなのに、それでも我々がツェランを読むというのは、じつに不思議な感じがする。
ツェランの詩を読みほどく

ツェランの詩を読みほどく