片山杜秀『クラシックの核心』/岩本裕『世論調査とは何だろうか』

雨。暑い日がつづいたが、肌寒いくらい。
片山杜秀『クラシックの核心』読了。副題「バッハからグールドまで」。id:SHADEさんのところで教えられた本。片山さんの本だから、取り敢えずは読まないといけないと即座にポチったが、いやあ、楽しかった。というか、マジで笑った。おもしろすぎますね。子供の頃のレインボーマン体験やウルトラマン体験から話が始まっているのが、片山さんらしい。自分のことを省みると、片山さんほど子供の頃の「俗な」クラシック体験が少ないので、純粋培養のつまらなさみたいなことになっているなと思う。しかし、御承知のとおり超個性的な片山さんだが、読んでいて笑いつつも、頷かされることしきりであった。今、こんなに力強く個々の作曲家を捉えている音楽評論家が他にどれだけいるか、疑問だと思う。というか、面倒くさいことを云うと、こういう人がいるのは、日本のクラシック音楽受容の成熟と真実性を証明するものでもあろう。マーラーとかカラヤンについてなど、その批評の正しさ(なんていうと片山さんには叱られそうであるが)と独自性には感嘆させられた。もっとも、と同時にゲラゲラ笑っているのだから、自分も節操がない。本書を読んで、ますます音楽を聴く楽しさを確信した。片山杜秀さんの今後の御活躍を心から願わずにはいられない。

岩本裕世論調査とは何だろうか』読了。今アルコールが入っているので面倒なことが書けないが、一応書いておきます。著者は専門の学者というわけではなく、NHKの記者から始めて番組の制作などにも携わり、今では世論調査に関する部署の副責任者とでもいう立場の方です。「週刊こどもニュース」の三代目お父さんもやられたそうで、自分は存じませんが知っていられる方も少なくないのかも知れません。本書は岩波新書なので、数式なども含めた、世論調査の啓蒙書かなと予想していたのですが、実際そういう本も書けたような印象ですけれども、「世論調査の世界に入ってきたときの自分が『あったらいいな』と思っていたような本」を書こうとされたということで、これはこれで立派な態度だと思いました。そして、その目論見は成功したと言っていいでしょう。数式などはありませんが、自分は非常に啓蒙されました。我々市民が世論調査の報道を見聞きして、考えねばならないこと、注意すべきことは網羅されているのではないかという読後感です。そして、政治などを考えるにおいて、世論調査の役割を正確に捉えるということは、市民に必須のリテラシーなのではないかという結論に至りました。世論調査は、使い方により、国民のためにも、また国を滅ぼすためにも使える、大きな力のひとつなのです。例えば今の安倍首相は、世論調査の結果を見て、与党が三分の二を占める衆議院を敢て解散し、前回の衆議院選挙に勝ったのです。それは単に、自分の任期を確実に伸ばすという目的以外のものではなかったのであり、それこそ国民は疑問に感じた(という世論調査結果が出ていました)選挙であるにも関わらず。まあ、これについてはこれ以上書きません。
 ですから、本書は我々市民が読んで損はない書物であると云えましょう。自分は推奨しておきます。で、あとはちょっと蛇足をしておきます。読んでいて自分に思われたのは、世論調査はいいのですけれど、それでいつも思うのですね、皆どんなことについても、聞かれれば意見が言えるのだなあと。本書に笑い話でなく、こんなことが書いてありました。アメリカのワシントン・ポストが、「1975年公共法」の施行二〇周年にあたり、この法律を廃止した方がよいかを調査したところ、半数の人が「わからない」と回答したそうです。半数もわからないなんて、普通は質問の仕方に問題があるところですよね。しかし、その結果を当り前だと取るべきなのか、というのは、そんな法律はじつは存在していなかったのです。半数の人は「わからない」とは答えなかったのですから、存在しない法律について意見をもっていたということになりますね。バカバカしいと思われる方は幸いです、僕は、これに近いことはじつは普通なのだと思います。もっとも、だからどうというわけではないのです。事実はそんなものなのですが、僕はむしろ、何にでも意見をもつというのは、却って問題なのだと考えます。アメリカの知識人で、スーザン・ソンタグという人がいました。既に癌で亡くなっていますが、この人の発言は個人的に心に残るものが多かったです。で、そのソンタグは、高橋源一郎さんからの間接的な知識ですが、何にでも意見をもつことをよいことだとはしなかったそうです。敢て意見をもたないこと、意見を決めないこと。その方が柔軟で誠実であり、敢て云えば「正しい」ことがあると、ソンタグは言いたかったのかわかりませんが、自分はそう解釈しています。存在しない法律について意見をもつこと、そういうことが少なからず世論調査の中に含まれているような気がしてならないのです。
 少し話はずれますが、意見を決めるということで、熟議民主主義という考え方があって、理想ではあるがそう上手くいかないという(現実的な)判断もあります。でも、僕は自分が対話の場にないので痛感するのですが、やはり対話は意味があるような気がします。本書にも「討論型世論調査」というものが紹介されていて、そう簡単なことではないらしいですが、著者はその可能性も感じておられました。そこでですが、僕は、インターネットのいいところは、自分のとちがう意見に簡単に接することができることにもあると思っています。そこに他人との、想像上の「対話」が行われるといいわけです。それですらなかなか上手くいかないですが、インターネットの可能性だと思っています。
Unicodeってこんな絵文字もあるのか→🐍☂✈