高橋源一郎『ぼくらの民主主義なんだぜ』

晴。
音楽を聴く。■バッハ:ハープシコード協奏曲第二番BWV1053(デイヴィット・モロニー他、参照)。■ベートーヴェン弦楽四重奏曲第十六番op.135(ブッシュQ 1935)。ようやく第三楽章が多少自分のものになってきたかなという感じ。しかし謎めいた曲だ。ここからベートーヴェンはどこへ行こうとしていたのだろう。

イアン・ハッキングの『表現と介入』を読み始めたのだが、じつにおもしろくて色々空想させられるので、一〇〇頁くらいしか読んでいないがちょっとした妄想を書き付けておきたい。と云っても深刻な話ではなくて、「実在」という語を廻る感想である。著者はクォークは実在とはなかなか思えないが、電子は実在と思えるという。そう思うようになったのは、彼の友人(実験家である)が、クォークの実在(というか、分数電荷)を証明しようと、陽電子に「電子を吹きかける」と言ったからなのだそうだ。「吹きかけ」られるようなものは「実在」しているだろう、という感覚である。なるほど、よくわかる。自分も電子は実在していると思えるし、クォークも実在しているような気がするが(ちょっと怪しい)、「Dブレーン」とか「カラビ‐ヤウ空間」はまだ実在しているとは実感できない。それで空想したのが、例えば隣家の犬はどうも実在しているとは思えなかったのに(?)、そいつに噛み付かれたら実在を疑えなくなったというような、漫談である。かくも、「実在」というのは厄介である。それは言葉の使い方の問題でもあるし、我々のある種の実感にも関係しているのだ。
 もう少し科学的な話をすると、「熱」の問題がある。我々は熱いものに触れて手を引っ込めたりすれば、「熱」の実在は疑えないが、御存じの方も多いように、「熱」は物理的実在ではない。かつては「熱素(カロリック)」のようなものが考えられ、それが熱の「実体」であると見做されていたが、熱素は歴史的に否定され、いまでは「熱」は分子の運動乃至振動であると考えられている。しかし、単純にそれで終らないのは、物理学に「熱力学」という分野があるからだ。これは古い理論であるが、今でも世界中の様々な場所で使われているし(物づくりをやっておられる方々は実感されているであろう)、さらに、理論は修正されたことのない、完璧と云っていいようなものなのである。熱力学は一応統計力学によって基礎づけられているという考え方もできるが、むしろ熱力学の正しさが統計力学を保証していると云っても、あながち間違いとは言えないだろう。さても、こうなってくると、事態は紛糾している。もちろん、自分はこれらの紛糾をどうしようという宛もないし、殆どどうでもいいのだが、こういうことを粘り強く考える西洋的思考には、つくづく奇怪なものを感じてしまうのだ。
 蛇足であるが、重力に関しても似たようなことが言えるな。重力の実在を信じない人は既にあまりいないと思うが、それは物理学的に云えばニュートン力学の話であり、一般相対性理論に拠れば、「重力」というのは質量(やエネルギー)の作り出す空間の歪みに過ぎないということになる。では、「重力」は実在しないのであるか? いや、だってリンゴは樹から落ちるでしょうと云えば、混乱する人は確実に居るであろう。しかしさらに云えば、古代にあってはリンゴが落ちるのを見て、誰も「重力」なんぞ、思いもよらなかったのである。
 妄想はまだ続く。もしかしたら、物理法則を表す数式は、それを考え出した学者よりも「賢い」のかも知れないのだ。一般相対性理論を考え出したアインシュタインは紛れもない天才である。しかし、アインシュタインは最初、重力場方程式は厳密解を持つとは思っていなかった。実際には厳密解は複数発見されているし、その中の幾つかは、ブラックホールなどというものの「存在」を予想すらしている。そして、今ではブラックホールの「実在」を疑う物理学者は極少数であるのだ。これは、一般相対性理論がなければあり得なかったことである。また偉大なるニュートンも、力学法則から「カオス」なる現象が出てくるなど、予測の彼方だったろう。こんなことは、物理学においては殆ど「当り前」だと云えるのである。

高橋源一郎『ぼくらの民主主義なんだぜ』読了。朝日新聞論壇時評の新書化。最近は新聞に目を通す時間がめっきり減ったが、源一郎さんの論壇時評は必ず読む。というか、母も源一郎さんの論壇時評のファンで、いつも読め読めというので、読み忘れたことはない。本書に収録された48篇も、ほぼすべて多少は覚えていた。しかし纏めて読んでいて、ウルッとなったところが幾つかあったし、心の中では殆ど号泣していた。何故なんだろう? 本書を読んでいて思われて仕方なかったのは、この国は殆どもうダメだということである。いや、それならいつも思っていることで、特別なことではない。感動させられるのは、源一郎さんは決して諦めないし、なにより政治や社会、経済を考えるにおいて、極めて柔軟で繊細な、新しい語り方を作り出していることである。とにかく、今までの言葉だけでは、日本を、世界を語るには不十分なのだ。自分はもう若者ではとっくになくなっているけれど、源一郎さんから見ればまだひよっこのような歳だろう。まだまだ諦めていてはいけないのだと思った。こんなロックな、パンクなジジイが頑張っているのだからね。こんなことを書いてもムダであろうと、今でも心はまだ萎えそうではあるが、自ら叱咤したいと思う。
 それにしても驚かされるのは、源一郎の言っていることはとても大切なことがテンコ盛りなくらいなのに、そこには「正義」の腐臭がまったく感じられないところだ。そこが例えば池澤夏樹とはちがって、源一郎さんが真の知識人である証拠だと思う。たとえ弱者のために「正義」を振りかざすのだとしても、その「正義」は必ず副作用があり、さらには必ず反転する。これは本当にむずかしい問題で、その罠から逃れられるには強靭な思考力が必要とされるのだが、源一郎さんはそれをほば達成しているようなのだ。
 本書はちょうど東日本大震災の直後から始まっているが、あれから日本はずっと大変な状態に陥っていて、今でも事態はどんどん悪化している。本書を読むとそれがよくわかる。経済はリフレ政策でよくなってきたが、本書で扱われている問題は殆ど何ひとつ解決していないようだ。つくづく思うが、経済がよくなったことはじつによいことだけれども、経済の好転がすべてを解決するわけではない。それどころか…、いや、やめておこう。しかし、どうして我々はこんなところまで来てしまったのか。
 子供たちが出て行ってしまった祝島で、棚田で米を作り続けている80歳のおじいさん。棚田は、おじいさんのおじいさんが子孫のために30年かけて石を積んで作り上げてきたものだ。「田んぼも、もとの原野へ還っていく」と、おじいさんは微笑んで、新しい苗代を作るのである。(p.39)