オルダス・ハクスリー『すばらしい新世界』

久々の晴。
音楽を聴く。■テレマン:序曲変ロ長調TWV55-B11(ペイエ、コレギウム・インストゥルメンターレ・ブリュヘンセ、参照)。■ハイドン交響曲第九十九番(バーンスタインNYPO 1970)。■メンデルスゾーン弦楽四重奏曲第五番op.44-3(ケルビーニQ、参照)。いいね。メンデルスゾーンの良さがようやくわかってきた。

県営プール。
オルダス・ハクスリーすばらしい新世界』読了。黒原敏行訳。旧訳をかつて読んでいるが、中身をほとんど忘れていたので楽しめた。これはまたおもしろい小説ですね。一応「ディストピア(アンチ・ユートピア)」小説とされるが、一筋縄ではいかない。というのは、このディストピアユートピアと殆ど見分けがつかないのだ。徹底的に清潔で楽しく、欲望は満たされ、誰もが幸福に包まれた社会。これこそ人類の目標だと考える人間がいてもまったくおかしくないし、現実に世界はその方向を向いているのではないか。確かにここでは、人間のすべてが管理されている。しかし、不幸は「ソーマ」を飲めば化学的に解消されるし、セックスも自由、それなのに結婚をする必要はなく、何より一切の戦争がない。本書第二の主人公である「野蛮人」ジョンはこの社会を拒絶するが、最終的には自殺に追い込まれてしまう。この社会をリジェクトするには、相当の思想と覚悟が必要だろう。結局、本書の提起する問題は、我々には自由が必要なのかというところにあるからだ。実際、我々の現実を深く考えてみれば、我々には果して自由があるのかどうか、これは議論の余地があるだろう。我々は、何かに動かされているだけなのではないのか。ラカンは「我々の欲望は他者の欲望である」と言ったが、まさしくそれは真実であろう。本書の議論が、深いところに届いている所以である。
 それにしても、本書の世界で戦争がなくなっているのは、興味深いことである。ひょんなことを考える。二十一世紀になっても戦争が絶えないのは、我々が自由を求めるせいなのではないかと。我々は戦うとき、究極の自由を感じるのではないのかと。しかし、やはり自分はこれは認められないな。日本にも戦争を体験した人たちがまだわずかに生き残っているが、戦争の悲惨さは論じるまでもないことである。怖いのは、実際に戦争を体験した人たちがいなくなって以降だ。今ですら、戦争をしたい奴らが大きな顔をするようになってきている。そのうち、どういうことになるのであろうか。

すばらしい新世界 (光文社古典新訳文庫)

すばらしい新世界 (光文社古典新訳文庫)


Japan Times の記事から「日本の厄介な歴史修正主義者たち」 - 内田樹の研究室
日本人の多くは中国の言い分はバカげたもので、世界は相手にするまいと思っているのかも知れないが、それは単に無知である。そしてそれは、中国が理不尽なことを、黒を白と言いくるめているからではないのである(そんなことなら、我々は彼らを放っておいて構わない)。日本が如何に異常な、傲慢な態度を取っているか、我々は早く気づいた方がいい。自分は大変な愛国者ではないのかも知れないが(少なくとも内田樹ほど愛国者ではない)、それでも日本の行く末が心配になってくる。これでは、日本は世界的に孤立してしまう可能性がかなり高い。いい加減に、世界の方を向くべきだ。中国はとっくにそれをやっている。そして我々に言い分があるなら、蒙昧主義的なやり方でそれを表出すべきでない。しかし、日本のやっていることは、まさにそれである。信用のある海外ジャーナリズムに対し、親中プロパガンダンと罵倒・侮辱することの帰結が、まったくわかっていないとは、驚くべきである。困った人たちだ。こう書くと今や売国奴と見做されかねないのだから、日本人の無知も極まってきているなあ。
 いいですか、「歴史修正主義者」と西洋人に呼ばれているのは、中国ではなくて日本なのですよ。どうしてそうなったのか、それが中国のプロパガンダのせいだと思ったら、大間違いである。我々がどう見られているか、そしてそれはどうしてなのか、冷静に認識すべきである。とにかくそう見られているのは事実である。それは、上のリンク記事にあるだけではない。皆英語が得意なんだから、海外メディアの記事でもちょっと読んでみたらどうなの? と英語に苦労する僕なんかが云うのはおかしいのだが。正しいのは我々だ、世界がまちがっていると叫んでも、何も解決しないどころか、事態は悪化するばかりである。とりあえず、書店の目につくところに大量に並んでいる、曽野綾子の本を何とかしろと言いたい。まともな右翼から見ても、あれは日本の恥ではないのか? 海外からは、ああいうのは目につくよ、きっと(先日の曽野綾子アパルトヘイト的発言、またそれに対する世界の反響への無様な開き直りは、世界的に広く報道された)。あれが日本人の平均的レヴェルだと見られているし、まあそれが正しいのだろう(安倍首相を始めとする日本の多くの政治家も、同レヴェル。安倍首相は曽野綾子の言うことをよく聞いているらしい)。しかし、勉強せねばならないことが、いっぱいあるなあ。正直言って、一市民の手にはなかなか負えないのだが。
 どうせ放言だから、もう少し正直なところを書いておくか。自分の貧しい海外メディア体験だが、学生の頃は「日本はすごすぎる。我々は日本にかなわないかも知れない」という賞賛と警戒の論調が多かった。それから少し前までは、段々日本の記事が減ってきて、端的に無視されている感じだった。「もう時代は日本ではない」というような。最近は、好意的なのでも、「日本は悪くない。日本人はすばらしい人たちだ。でも、政治家の態度は危惧する」という感じで、辛辣なのになると「日本の政治家は三流だ」という感じだろうか。さて、これらを我々がどう受け取るかだ。別に海外メディアに盲従する必要などさらさらないが、彼らの本音は聞いておくべきだろう。幸い、彼らはそういうことは正直だからね。そして、それで世界的孤立を選ぶというのなら、敢て言うこともない。そしてその時、アメリカだけは日本を見捨てないだろうとするのは、これも端的に無知である。