納富信留『ソフィストとは誰か?』

晴。
音楽を聴く。■ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第二十五番op.79(アラウ1966)。■バッハ:ピアノ協奏曲第一番BWV1052(シフ)。普通。

Complete Keyboard Concertos

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ヒンデミット:室内音楽第四番op.36-3(シャイー、参照)。■ハイドン交響曲第百番Hob.I:100(バーンスタインNYPO1970)。

どうも眠い。
納富信留ソフィストとは誰か?』読了。題名が多少軽いので、危うくやり過ごすところだった。サントリー学芸賞受賞作に目が行って買ったのだから、我ながら情けない。著者が書いていて驚いたのだが、日本でソフィストについて書かれた本は、田中美知太郎の『ソフィスト』以来、本書がなんと二冊目なのだそうである。だいたいソフィストというと、専らプラトンのせいで、黒を白と言い含めるような技術を金で売る、軽蔑すべき輩たちだというイメージであろう。しかし本書を読むと、とてもそんなに簡単なものではない。ソフィストと哲学者は異なると言って、さてどこがちがうのか。どうも本当のところは、ソフィストたちが居なかったら、哲学者というのも存在しなかった可能性が高いのである。だいたいソクラテス自身、当時のアテナイ人たちはソフィストと見做していたし、ソフィストとして告発されて刑死したのだ。我々はどうしてもプラトンの目から見ているので、そこいらを間違えるのである。
 本書によれば、ソフィストとしてまず異論のないところは、プロタゴラス、プロディコス、ヒッピアスの三人だそうである。そもそも「ソフィスト」と言い出したのは、プロタゴラスである。有名なゴルギアスは分類がなかなかむずかしいが、本書では大きく扱われており、それも本書の記述から納得できる。じつはゴルギアスには著作が残っており、本書でその『ヘレネ頌』と『パラメデスの弁明』、『ないについて、あるいは、自然について』の三作の優れた翻訳が読めるのも嬉しい。もっとも『ないについて』は、アリストテレスとセクストス・エンペイリコスの著作からの再構成であるが、非常に「詭弁的」であって、面倒だがじつにおもしろい。まあ自分などにはマジメに読解しようという気を起こさせない「詭弁さ」であるが、たぶんゴルギアス自身もマジメに書いていないような気がする。いわば遊びなのだろうが、まあ研究者ならばマジメに読解しなければならないので、御苦労様である。
 それから、一般には殆ど知られていないであろうアルキダマスに、多くのページを割いているのも本書の特徴である。その著作『書かれた言論を書く人々について、あるいは、ソフィストについて』も本書で訳されていて、これは貴重だと思った。これはプラトンの『パイドロス』に酷似していて、その点で有名らしいが(著者に拠れば、プラトンの方がアルキダマスを念頭に書いたのだと云う)、それを措いても自分には魅力的に感じた。この時点で既に、エクリチュール批判なのである。少なくとも訳文で読むかぎり、文体も個性的であるが、アルキダマスは書くものを重要視しない、そういう内容なのだから妙である。
 以上、魅力ある本でした。また、鷲田清一氏が優れた文庫解説を書いておられ、ソフィストを考えずに哲学ができるのかという問題提起を受け止めてあったが、確かにいま大学で哲学をやる(つまり哲学の大学教授である)というのは、むしろソフィスト的行為なのではないかというのは、考えるべき問い掛けであろう。少なくとも日本でもいま、大学で哲学を教えているところは沢山あろうが、その中にどれだけ哲学者が存在するのか。そんなことを思わせないでもない。