ポール・オースター&J・M・クッツェー『ヒア・アンド・ナウ 往復書簡2008-2011』/池内紀『森の紳士録』

晴。
音楽を聴く。■テレマンターフェルムジークII(IV.フルート、オーボエ通奏低音のためのトリオ・ソナタ)(ムジカ・アンフィオン、参照)。どうしてテレマンがあまり聴かれないのか、まったくわからない。とても comfortable ではないか。

図書館から借りてきた、ポール・オースターJ・M・クッツェー『ヒア・アンド・ナウ 往復書簡2008-2011』読了。オースターはこれまでたぶん四冊、クッツェーはまだ読んだことがない。両者とも、積ん読になっているのが何冊かある。さて、小説家同士の往復書簡として、本書はどうなのであろうか。話題は友情についてから、パレスチナ問題まで、またもちろん文学について、多岐にわたる。まあ、自分にとっては、我々のブログ同様、どうでもいいものであったが、自分がネットでいちばん好きなのが、どうでもいいようなブログを読むことなのである。それと似た楽しみがあったことは間違いない。もちろんこれは自分の感想であり、普通にきちんと読めば中身の詰まったものなのであろう。それから翻訳であるが、最近の平均的なレヴェルだと思うけれども、その最近の平均というものが高いのを、このところ実感している。これは、日本語が西欧語の感覚を大幅に取り入れてきていることにも、関係があろう。ただかかる文体では、話者の年齢が相当に低く感じられる。クッツェーなどは、もう七十を超えたおじいさんであるが、訳文では四十歳くらいにしか感じない。どういうものなのだろうね。気にし過ぎか。日本でも、村上春樹の文体とかの例があるものなあ。
 それからどうでもいいことだが、本書は岩波書店から出ているのだな。なんとなく新潮社か、みすず書房みたいな気がしていた。

ヒア・アンド・ナウ 往復書簡2008-2011

ヒア・アンド・ナウ 往復書簡2008-2011

池内紀『森の紳士録』読了。著者が山歩きなどで、森で出会った生き物たちについて書かれている。著者にしてはめずらしく、正義感や義憤で書かれている文章もあるが、その気持ちはわからないでもない。そりゃ、人間は勝手だからね。猪に襲い掛かられても恐ろしいと思ったことはないが、人間は何をするかわからないからという森の老人の話もある。しかしまあ、そんなことはあまり強調しないでおこう。今では道徳の教科書的ではあるが、自然に親しんで悪いことはない。自分も、田舎に住んでいるのに、最近では少しづつ周りが騒がしくなってきて、残念に思っている。ここがもし都会になったら、ふるさとは失われたことになるだろう(まあそんなことはまずないとは思うが)。養老孟司先生ではないが、参勤交代制度を現代でもつくるべきで、田舎の人は都会に、都会の人は田舎に住んでみる経験はあるべきだ。その時、都会の人は本書を手に田舎に来てもいいのではないだろうか。
『初めての Ruby』を好き勝手なところからつまみ食いしているが、Ruby の奥の深さに既に呆然。しかしこのところ思うのだが、コンピュータの世界というのは、今では閉じた世界とは云えないかも知れないね。僕のような初心者にすら、既に相当の奥の深さが感じ取れる。ネットしかり、プログラミングしかり。この世界には多くのプログラミング言語が存在するが、自分の知っているものすら、すべてある種の「芸術品」とも云えるだろう。Ruby などは、一際それが感じられる。そして、コンピュータの世界には国籍はもちろんあまり意味がないが、それでも Ruby を創ったのが日本人だというのは、何か納得できるような気がしないでもないのだ。勘違いかも知れないけれど、日本的な「洗練」を感じないでもない。まあこのコンピュータの世界で、特に日本にこだわるのはよくないとも云えようが。とにかく Ruby には惹かれます。
 そうそう、断っておかないといけない。知っている人は知っている筈だが、『初めての Ruby』は、プログラミングが初めての人向きではありません。既にある程度、他言語の経験がある人向きに書かれているので、まったくの初心者ではわけがわからないでしょう。老婆心までに。