晴。
安永祖堂から孫引きする。井筒俊彦はこう言っているそうだ。
禅にとって遥かに重要なのは、神秘主義的な主客未分そのものではなくて、主客未分に当るような状態を一契機として、主客をいわば上から包みこむような形で現成する全体的意識フィールドであり、そういう全体的意識フィールドの活作用なのである。
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昼からイオンのユニクロとスポーツ用品店。便利だから結局イオンなんだよな。
久しぶりにカルコス。電子書籍で安く買えるものは、つい見送ってしまう。この本屋がなくなったらとても困るから、何か考えないとね。
橋爪大三郎&大澤真幸『ゆかいな仏教』を読む。まだ読んでいる途中であるが、一言書いておきたかったので。本書はとてもおもしろいが、仏教理解に有害であると思われる根本的な誤解があるようだ。いや、自分のような凡人でレヴェルの低い者がいうのは洵に心苦しいのだが、仕方がないので書いておく。本書で特に橋爪氏は、仏教をいわば「覚り」至上主義で理解している。そのことはいい。しかし橋爪氏の「覚り」は、いわば絶対的なものである。大澤氏の「覚った人は何をすべきなのか」という問いに対し、橋爪氏は「何をやってもいいんです。覚った状態というのがあって、そこから先にはもう前進できない」と答える(p.244)。これは世間でもよく見られる「誤解」であり、その意味で橋爪氏は「覚っていない」と言わざるを得ない。「覚り」というのは、それを得てすべてが終わるような「状態」ではない。むしろ、そこからはもう引き返すことのない地点を得るという体験に過ぎず、状態としての「覚り」というのは不断に失われるものであって、常に更新し続けられねばならないのである。もし「高僧」という存在があるとすれば、その更新を怠らないというだけのことであり、歴史上のブッダもそうであった筈である。ただし、不可逆地点は確実に存在する。
それから、その或る地点への到達には、無数の方法があって、それぞれの宗派、またその人によってちがう。禅宗のような「自力」的な道もあるし、浄土真宗の妙好人のように、「絶対他力」によってなされる道もある。そして、知恵のあり方も、人によって随分ちがう筈である。しかしそれでも仏教にちがいないところが、またおもしろいところであろう。
もちろん以上のことは、自分などの云うことである。自分の未熟さを示しているのは明らかであり、まあ書いてみたに過ぎない。
あとは本書の試みに対し、別の応答もしておこう。仏教は説明できるか。もちろん説明できる。そして同時に、まったく説明できない。さらにそれらの二者は、同時に正しいのであり、またそうではない。こういうことを言うと、仏教は不可知論であると云われるかも知れない。しかしそうだとも云えないのである。以下、無限に続く。こういうところから、「覚り」に向かうこともできるかも知れない。これもまた、ひとつの道に過ぎない。
- 作者: 橋爪大三郎,大澤真幸
- 出版社/メーカー: サンガ
- 発売日: 2013/10/28
- メディア: 新書
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※追記 ブログでの本書の感想を色々読んでみたが、ちょっと衝撃的だった。日本人が仏教をある程度は知っているって、ウソだと思う。東洋人が東洋を知らないというのが、ここまで現実化しているとは。だからと云って西洋もよく知らないしね。無意味でないとは云え、「哲学としての仏教」だとか、そんな話ばかりになるのも無理はない。
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下は、技術評論社のHPに不正アクセスがあったことに関する報告とお詫び。別に自分には何の関係もないが、特に二ページ目の詳細状況が生々しい。HPへの攻撃って、こんな感じなのか。おっかね。
弊社ホームページ改ざんに関するお詫びとご報告:インフォメーション|gihyo.jp … 技術評論社