こともなし

晴。本格的に寒くなってきた。
昨日から、ずっとプログラミングで遊んでいる。プログラミング脳になっているなあ。Chrome extension と Perl を組み合わせて(外部でですよ)成功。extension の方は、もっと自在に活用できればもっとおもしろい筈だ(英語文献…)。JavaScript が自分の実力ではまだまだなので、なかなか自分にはむずかしい(extension は、プログラミングのレヴェルとすればそんなにむずかしくないらしいけれども)。しかし、JavaScript のコールバック関数のネストはどうにかならないものか。

HDMIケーブル(757円)落手。ゲーム機をもっている人は大抵これももっているだろうが、自分はまだもっていなかったので買ってみた。PCを大きいテレビに繋ぐわけである。まあ何ということもないが、旅行した時の写真をスライドショーで観るのは、画像が大きくかつ鮮明なので、結構惹き込まれて観てしまった。やはり最近のデジカメは、小さくてもかなりキレイに撮れるなあ。あとは動画など。老眼になったら大画面でPCを使うという手もある。iPad mini でもやれないかな(参照)。


電子書籍で鴎外を読んでいる(参照)。今日は「鴎外漁史とは誰ぞ」「仮名遣意見」「ぢいさんばあさん」など。鴎外は短い文章が多いので、短い空き時間に読むのにちょうどいい。ありふれた意見だが、鴎外はやはり文章がいい。いいというか何というか、すっきりするというのか、日本家屋の清潔で整頓された畳の部屋のような気持ちのよさというのか、どうも背筋が伸びる気がする。格調が高いというのは、まさにこれであろう。これこそが文明ではあるまいか。今の日本のどこに、文明があるだろうか。
 それにしても、鴎外の文章は現代の目で読んでも、これ以上を望めない、見事な散文である。正字歴史的仮名遣で読んでももちろん素晴らしいが、略字・現代仮名遣で読んでも、これはこれで独特の美を感じる。偶々今日「仮名遣意見」を読んだのだが、鴎外は基本的に今で云う「歴史的仮名遣」を採っているのだけれど、国語の変化に対して目を閉ざしてはいない。実際、鴎外の文章自体が、「現代仮名遣」でも立派に成立している例になっているのである。林達夫の文章は元々は「歴史的仮名遣」で書かれている筈だが、むしろ「現代仮名遣」で読むべきであろうし、澁澤龍彦などは最初から「現代仮名遣」で書いている。これらを見ても、自分は「現代仮名遣」には柔軟性がある上に、それで美を追求することも不可能ではないと思う。(まあ自分などは措いてだが。)もっとも、現代で「歴史的仮名遣」で書くというのも、なかなかおもしろい試みだと思うし、「歴史的仮名遣」の呼吸を知って「現代仮名遣」で書くというのは、これはいい試みであろう。
 あれ、こんなことを書くつもりはなかったのだがな。まあご笑覧下さい。引き続き鴎外は読むでしょう。しかし、電子書籍がこういう方に行けるとはな。それはそうと、もっと新書なんかを電子書籍で出して下さいよ。