リルケ『マルテの手記』

晴。
カルコス。

『マルテの手記』の新訳を読む。まだ途中なのだが、ちょっとだけ。『マルテ』の新訳が出るというのでとても期待していたのだが、冒頭から面食らった。自分が過去に読んだのは岩波文庫版で、その冒頭はこうである。「人々は生きるためにこの都会[パリ]へ集まって来るのだが、僕にはそれがここで死ぬためのように考えられる。」新訳はこう。「そう、そういうわけで、人々は生きるためにここに来るのだけれど、ぼくに言わせればむしろ、ここでは人が死んでいっている。」たぶん新訳の方が正確なのだろうが、「むしろ…死んでいっている」というのは、どうも日本語としてしっくりこないように感じる。まあ、自分の言語感覚がおかしいのかも知れない。確かに新訳はとても読みやすいのだが、どうもリルケのような病的なまでに繊細な詩人が、都会の孤独を書き連ねている文章とは自分には思えない。文章が幼稚に感じる。いったい、リルケのような人が、「かちゃかちゃ」とか「ぴょんぴょん」とか「ぺちゃん」といったような、無神経なオノマトペを使うだろうか。自分にはこの散文は、二十八歳のマルテ、あるいは二十八歳のリルケによって書かれたとは到底思えない。せいぜい中学生の文章のように思える。また、斎藤環リルケの散文を現代のブログやツイッターに擬えているのも、どうもお里が知れるというか、納得できない。もちろん自分は、原文でリルケを読んだことはないですよ。だから、的外れなことを云っているかも知れないが。新訳が読みやすいのは確か。


リルケ『マルテの手記』読了。松永美穂訳。全部読み終えてしまうと、上に書いたのとは少しちがった感想も湧いてくる(読了とはつねにそうしたものだ)。こうしたわかりやすい文章で読んでみると、この小説が非常に難解であることに気づく。文章が平易な分だけ、それがよくわかるのだ。特に最後の五〇頁ほどは、魅力的な文章ではあるが、スラスラと読めないし、真に何がいいたいのか、自分にはどうも判然としない。リルケの研究書を読んでみたいくらいである。なお、斎藤環の解説は病跡学の体裁を採っていて、一定の参考になる。しかしリルケは、病跡学の対象としてはどうなのだろう。自分は斎藤の文章を、あまり気持ちよくは読めなかった。まあ、文学を精神医学で切るという手法が、個人的にあまり好きではないこともあるだろうが。むしろ、古臭い手法でも、もっともっと文学的に論じるべき作家のように思われる。

マルテの手記 (光文社古典新訳文庫)

マルテの手記 (光文社古典新訳文庫)


今度は上野修の『スピノザ「神学政治論」を読む』に目を通している。またまた途中であるが、メモしておく。自分は偶々先日『神学政治論』を新訳で読んだのだが、スピノザの言っていることは素直だと思っていた。というのは、人々が聖書や神について、賢しらな意見ばかりを発し、それによってキリスト教の一番の要である、「神を何ものにもまして愛し、隣人を自分自身のごとく愛する」ことから遠ざかってしまっているという、それがスピノザの主張だということであった。自分はこれは「コロンブスの卵」的な意見であり、殆ど疑問の余地はなく、スピノザは勝利したのだと思っていた。しかし、本書に拠れば、『神学政治論』はまったくの失敗だったようである。後世の評価としても、スピノザ無神論を偽装したか、そうではないが一種のレトリックとして本書を書いたのかのいずれかだとは、本書の記述である。後世のつまずき(?)は、スピノザが聖書を「非真理」でもいいとしていることだった。なるほど、これはよくわかる。西洋の思考法として、「非真理」に価値を認めることはあり得ないからだ。いや、日本人だって、真理を大切にするよという反論はあるだろうが、自分の言いたいことはそれとはちょっとちがう。それで面白いのは、著者なりのスピノザ解釈として、「スピノザは宗教を、その真理性という点ではまったく信じていないが、それがそんな風に言う正しさ、そしてその正しさの解消不可能性という点では全面的に受け入れる」(p.98)という言い方をしているが、これは西洋人には理解できない論法なのではないか、ということである。「その真理性を信じない」というのは、不信仰以上に西洋人の理解を超えると思われるのだ。ここにはしなくも、著者の「日本人性」が現れてしまっているように、自分には見える。これは必ずしも、著者の論法が成立しないと云っているわけではない。ただ、東西の発想法のちがいを、またスピノザの特異性を思うのである。

最近つらつら思うことについて。最近の日本国民のコンセンサスとして、日本を欧米並みに、戦争のできる国にしようというのができつつあるようだ。何となくこれでいいのかなと思うのは、欧米の外交の根底にはエゴイズムと偽善があることを、日本人はわかっているのかなと疑問視するからである。例えば欧米各国は外交においてすぐに「正義」ということを言うが、これが最も偽善的な言葉であることは疑問の余地がない。その「正義」というのは、当り前だが、それは自分たちにとってのそれ以外の何者でもないのだ。アメリカの対イラク戦争でも、最近のロシアとウクライナの問題でも、欧米は自分たちの利益以外の何者も、外交において考慮していなかったではないか。自分はそうしたことがいけないとか、そういうことを言うものではないが、こうした考え方は、日本人にはなかなか徹底できないと思う。日本人は、人が良すぎるのだ。それでも日本国民が欧米並みを目指すというなら、もうどうしようもないのではあるが。これは極論かも知れないが、自分の実感としては、こんなめちゃくちゃな世界では、日本はアジアの二流国として、片隅でひっそりと生きていくのが一番いいような気がしないでもないのである。そんなことは出来ない? うーん、そうさねえ。
 とにかく欧米人(の特に指導者たち)にとっては、世界から戦争がなくなったら困るのだよ。日本人はそれがわかっているのかなあ。日本人こそ、平和のありがたみを肌で感じていると思うのだけれど。