小林秀雄『学生との対話』

晴。
音楽を聴く。■ベートーヴェン:ヴァイオリン・ソナタ第三番op.12-3(デュメイ、ピリス、参照)。初期ベートーヴェンの面白さを存分に味あわせてくれる。安心して聴ける演奏。■ベルリオーズ:レクイエムop.5(レヴァイン参照)。八〇分を超える大曲。スケールが大きくて、疲労困憊しました。ふぅ。レヴァインもこんなに射程が大きいとは。

図書館から借りてきた、小林秀雄『学生との対話』を読む。まだ読み終えていないが、全部読んでも感想はあまり変わらないと思うので、ちょっと書いておく。小林秀雄のことを語るには、少々個人的なことを書かねばならない。僕は物心ついた頃から本が好きな子供だったが、本当に本の面白さに目覚めたのは、高校生の時に小林秀雄を読んでからである。初めて買った全集も小林秀雄全集であり(後年、日本ではどんな文学者の全集より、小林秀雄全集が売れてきた事実を知った)、またこれほど繰り返して読んだ人も他にいない。恐らくそれは、自分が田舎に住んでいたことも大きかったと思う。自分の中に古い日本が残っていて、それが激しく反応したのだった。実際、小林秀雄の文章には、自分は強烈に惹きつけられてきたし、また本書を読んで、これは講演及び学生たちとの質疑応答の記録であるが、今でも惹きつけられるところがあるのを実感した。これは、自分の古臭さを示しているのだと思う。確か中沢新一さんの文章で読んだのだが、高橋源一郎さんは大学のゼミで、本など読んだことのない大学生に色々読ませて、ディスカッションをしているそうだけれども、一番人気がないのが小林秀雄だそうである。わけわかんない、なにうだうだ言ってんのこいつ、とでもいう感じだろうか。自分にはさみしい話だが、諦念を以て受け入れるしかない事実だろう。もう、古来の日本は、その感受性は、ほぼ消滅してしまったのだと思う。浅田彰さんも言っていた、小林秀雄の貧しさは、日本の貧しさだと。自分も最近は小林秀雄は読んでいなかったのだが、本書を読むと、あれほど自分を捉えていた文章の魔力が、相変らず自分の感受性をゆさぶるのに殆ど驚きを覚えた。自分は古臭いと、諦念を以て受け入れたいと思う。
 小林秀雄は『本居宣長』の強烈なイメージがあるので、晩年は古臭いものばかり読んでいたように思われているような気がするが、じつは色々貪欲に読んでいたようだ。大江健三郎のことはかなり評価していたようだし、ベルクソンの関係であろう、ドゥルーズのことは高く評価していたらしい(小林はフーコーは評価しなかったそうだ。これもわかる。フーコーの知性は鋭すぎる)。小林秀雄ドゥルーズ論など、是非読んでみたかったと思わずにはいられない。白洲正子さんの文章で読んだと思うが、南方熊楠を白洲さんに薦めたのも小林秀雄である。まあ、そんなことをいくら書いても仕方がない。日本人は変ってしまった、それだけを思う。
※追記 もうひとつ。文章こそが思想だということ。小林秀雄はそういう考え方をする人だった。だから、小林秀雄は、自分の文章に命を吹き込もうと、それこそ血の滲むような努力をした。今では、こうした考え方が馬鹿馬鹿しいと思われることはわかっている。自分でも、概念を転がすことが考えることだと、どうも勘違いしていて気づかないことがあるかも知れない。今風に染まっているのだな。

学生との対話

学生との対話

※再追記 本書読了。本書の最後に、前半の講演録と学生との対話を基にした、小林秀雄自身の文章の定稿がある。自分もかつて全集に録されたものとして読んだものだ。これに目を通してみると、意外にゴツゴツした感じになっていて驚いた。柄谷行人が、小林秀雄は文章を徹底的に直すが、元の方がいいと言っていたことを思い出すが、それはわからないでもない。講演を文章化したものは、わかりやすく、これはこれで魅力的だからだ。小林が定稿にしたものは、確かに難解になっている。しかしこれは、ギリギリの領域で書かれており、こちらも頭をフルに使わないと読み解けないところもあって、これが小林秀雄の書き方なのだと得心するところがあった。結局彼は、「作品」というものに拘りがあったのだと思う。小林秀雄の文章は外国語にも翻訳されているが、外国でもまったく反響がないそうである。確かに、小林秀雄が心血を注いだのは、日本語そのものだったのだ。恐らく、翻訳されたものは、小林秀雄が日本語に注いだ努力を、欠いているのではないかと思う。(AM2:43)