岸本葉子、玄侑宗久『わたしを超えて いのちの往復書簡』

晴。
まるで映画のような夢を見る。夢なのに、ものすごく辻褄が合っていて、不思議。
音楽を聴く。■ブラームスクラリネットソナタ第一番op.120-1(フローラント・エオー、パトリック・ジグマノフスキー)。

Sonatas Op 120 1 & 2

Sonatas Op 120 1 & 2

■バッハ:二台のチェンバロのための協奏曲BWV1060(ファン・アスペレン、参照)。■ブラームスピアノ三重奏曲第一番op.8(デュメイ、ピリス、ジャン・ワン)。これはいい演奏。この曲、作品番号は若いのだが、後年相当手が入っていることが知られている。熟成した曲であり、演奏だ。
KLAVIERTRIOS

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図書館から借りてきた、岸本葉子玄侑宗久の往復書簡集『わたしを超えて いのちの往復書簡』読了。岸本葉子という方はこれまで存じ上げなかったが、エッセイストで、癌を患われたらしい。それがきっかけで、僧侶の玄侑宗久さんと往復書簡を交わされたものを、本書は収録している。まず最初に断っておくが、本書は陰々滅滅とした本ではない。もちろんシリアスというか、真剣ではあるのだが、玄侑さんの導きもあり、ほっこりとした雰囲気になっている。とにかく、暗いのは何にもよくない。そして、題にもあるが、「わたし」を超えるというか、計らわないというか、頭を先にして生きないというか、そういうことを熟れた柿が落ちるように自得しようという、そうした興味深い試みへ読み手を誘おうとする。手紙は日本人らしく季節の話から始まることが多く、普段着の心で、しかし自然と時には高度な話題へ進んでいくこともあるが、それが洵に当り前のような心安い雰囲気なのだ。しかしこれ、淡々とした本だけれど、相当の名著ではあるまいか。これも断っておくが、読み手を選ぶような本ではない。病を得ている方も、健康な方も、いずれでも興味深く読めることを保証しよう。本書に拠れば、完全に病んでいるということも、完全に健康であるということも、ないというのだから。
ラン・ランを聴く。
まず、ショパンのピアノ・ソナタ第三番から。聴き始めてすぐ、異様な遅さに驚かされる。これは、例えばショパンの本質を表現するような演奏とは対極的であり、与えられた楽曲をどう料理してやろうかという、ショウマンシップに溢れた演奏であることに気づかせられる。遅く、かつ美しい弱音で弾かれ、極めてナルシスティックだ。しかし、確かに音楽として成立している。第二楽章はまあ普通。第三楽章も極めて遅く、十四分くらいかかるが、こういうのには段々慣れてくる。終楽章は速いかと予想していたが、テンポは普通で、抑制された演奏だ。これが素晴らしい。まるで「音楽的にも弾けるんですよ」と言わんばかりだが、この見事さは認めねばなるまい。この楽章が、全曲の中で最も音楽的価値が高いことをわかってやっているのだ。
 次いで、後回しにしたモーツァルトを聴く(ソナタ第十番K.330)。これはまた極めてオーソドックスな演奏で、奇を衒ったところはまったくないが、わざわざ「音楽的」に意図して弾いているのがおもしろい。こういう曲は、変な比較だが、日本人ピアニストの方がいい演奏をするのではないか。凡演。
 最後はシューマンの「子供の情景」。これもオーソドックスで音楽的であり、演奏のレヴェルは高い。ただ、タッチは美しいが少々単調。フロレスタンとオイゼビウスの弾き分けがもうひとつなのではないか。
 全体として、ラン・ランのトレード・マークであるあの派手な名人芸は抑えて、音楽的に弾いてみたという感じである。外面的な表現力は申し分ないのではないか。このアルバムを聴いた限りでは、ドイツ音楽はあまり合っていなさそう。フランスものとかはどうであろうか。才能に満ち溢れたピアニストであることは疑いない。
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