『柄谷行人インタヴューズ1977-2001』

雨。
県営プール。
音楽を聴く。■ラヴェル:水の戯れ(フランソワ)。最初、テンポが遅いのにギョッとする。あんまり「水の戯れ」という感じではないが、とても美しい。いかにもフランソワらしい演奏だ。

柄谷行人インタヴューズ1977-2001』読了。いやあ、もの凄い密度だ。混沌の中で、それを形式化しようとして、途轍もない力技を発揮している感じ。恐ろしく野蛮で、猛々しい。才能の塊なんて言葉が使いたくなるほどだ。しかし今や、このような世界が、高々十五年間くらいで根こそぎ変化してしまっている。柄谷自身はさほど変ったようには見えない。何かが深層崩壊してしまったのだ。ここでの柄谷の発言は超高密度で、(自分などには)何がなんだかわからないくらいなのだが、本書の続編では、非常にすっきりしている。これは、柄谷の老いのせいだと解釈すべきではないだろう。高橋源一郎の言うとおり、この間で日本語のOSが変ってしまったのだと思う。今や誰も、もうこんな風に語ることはできないのではないか。柄谷行人ですら。
 本書を読むと、自虐ではなく、自分はカスだと素直に言い切れる。いっそ爽快なくらいだ。ここでの柄谷行人は、それくらい凄い。