長島要一『ニールス・ボーアは日本で何を見たか』

晴。
音楽を聴く。■バッハ:チェンバロ協奏曲第二番BWV1053、第一番BWV1052(ボブ・ファン・アスペレン)。ちょっともっさりしていて、もっと切れ味が欲しくなるところもあるが、全体として悪くない。やはりピアノで弾いた方がいいような気もするが。

Bach: Harpsichord Concertos

Bach: Harpsichord Concertos

■バッハ:無伴奏チェロ組曲第四番(ロストロポーヴィチ)。■マーラー交響曲第六番(テンシュテット参照)。じつにマーラーらしいマーラー。録音はあまりよくない(音が汚い)が、聴いているうち気にならなくなってくる。生命感溢れる演奏だ。特に最初の三つの楽章が素晴らしい。終楽章も、自分はこれまでこの楽章がよくわからなかったのだけれども、この演奏でだいぶわかった気になった。録音の悪さを差し引いても、聴くべき演奏である。自分はこの曲がマーラーの中で一番好きで、気に入っているディスクも多いが、この演奏がその中に加わったわけだ。それにしても、マーラーを聴いたのは暫くぶりだけれど、自分の感性によく合った音楽だと思う。時には俗であり、時には崇高であり、それらが渾然一体となっているところが、スケールが大きい。中沢新一は、マーラーポストモダンを完璧に表現しているというようなことを云ったけれども、確かにそんな風にも云えると思う。■ドビュッシー:遊戯(ハイティンク参照)。■ヒンデミット:室内音楽第二番(アバド参照)。ヒンデミット、面白すぎるだろう。これはお薦め。

図書館から借りてきた、長島要一『ニールス・ボーアは日本で何を見たか』読了。ボーアの日本滞在について調べてある本。ボーアの日本滞在は、アインシュタインのそれほど注目を浴びなかったし、本書を読んでみても、特筆すべきエピソードには乏しいようだ。観光と講演旅行の繰り返しであり、全体として、ボーアの弟子である仁科芳雄が世話をしていたようである。著者の主張では、ボーアは日本滞在により、「相補性原理」の文化的意味合いを強めていったこと、また、異文化に価値の優劣はないという確信を深めたということであるが(p.12)、その辺りの検証は、どうも充分説得力があるとは思えなかった。だいたい、相補性原理の「文化的意味合い」とは、何か意味のあることなのであろうか。相補性原理は、量子力学的コンテキストを外れれば、一種の疑似科学であろう。
 本書とは関係ないが、近年では、かつては標準的であった量子力学におけるボーアの「コペンハーゲン解釈」は、多くの物理学者の信奉するところではなくなってきている。「相補性」と云われることは、少なくなってきた。しかし、ボーアの真骨頂は、その「折衷性」にあると云えるような気もする。ボーアが建設した初期量子力学は、本格的な量子力学の発展へのブレイクスルーになった、過渡的な原理だからだ。「コペンハーゲン解釈」も、指導原理としてのこれがなければ、多くの学者たちが量子力学に不安を抱きつつ研究を進めなければならなかっただろう。その意味でも、ボーアは偉大な物理学者だった。
 なお、本書での記述を見ると、当時の日本人の、偉大な学者に対する態度の素朴さが印象深い。じつに素直にボーアを尊敬している。よかれ悪しかれ、こういう日本人の性格は、今では失われたと云えるだろう。
中日ドラゴンズ、7-2で巨人に勝利。緊張感のある試合で、テレビ中継を見始めたら離れられなくなった。二年間の暗黒時代は、テレビを見ていてもつまらなくてすぐ見止めていたが、今年はちがう。何かあるのではと思ってつい見続けてしまうのだ。監督がちがうだけでこうも観客に伝わるものか。まだ中日は四位だが、それでも野球がおもしろくなってきた。選手の大型補強をしまくっている巨人に、補強は小笠原くらいの中日。こういう中日みたいな球団が勝たないと、セ・リーグはつまらないのだ。って中日ファンの戯言ですが。