吉田公平『王陽明「伝習録」を読む』/『柄谷行人インタヴューズ2002-2013』

曇。
音楽を聴く。■モーツァルト:ピアノ協奏曲第二十六番K.537(ピリス、アバド参照)。この曲は昔から苦手というか、生理的嫌悪感のようなものがある(どうしてだかわけがわからない)。客観的には、チャーミングな曲だと思うのだが。我慢して聴いてみる。いい演奏だとは思う。■ドビュッシー夜想曲ハイティンク)。

Jeux / Nocturnes

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吉田公平『王陽明伝習録」を読む』読了。『伝習録』から抜粋し、詳しく解いたもの。中国の古典を久しぶりに読んだが、これは面白かった。西洋の古典とはまったく違っているけれど、勝るとも劣らない。陽明学朱子学に対するものであり、儒学であるから、仏教(特に禅)は批判(仏教は天下に働きかけられない)の対象であるけれども、とても禅に近いと思った。結局、東洋思想の真髄は、どれも似たようなところを廻っているものだと思う。本書を読むと、陽明学がとても立派な思想だということがよくわかるのであり、また実際、日本でも江戸時代から明治にかけて、よく読まれてきた。現代の日本では、西洋哲学の俊英というのはある程度存在するが、東洋思想のそれというのを聞いたことがないのは、残念である。自分は、東洋思想は決して骨董ではないし、その生命を失っていないと密かに思う。これからもできるだけ、念頭に置いておきたいものである。
王陽明「伝習録」を読む (講談社学術文庫)

王陽明「伝習録」を読む (講談社学術文庫)

柄谷行人インタヴューズ2002-2013』読了。今、どういう人が柄谷行人を読むのだろう。経済学や社会学理論武装した若い知識人たちに、スポットライトが当っているように見える時代である。雰囲気としては、柄谷行人はバカにされているようにも見える。確かに自分も、柄谷行人の時にあまりにも形式的な議論には、何だかはぐらかされているような気がしてくることがあるのも事実だが、しかし、こんな状況でいいのだろうか。柄谷ほどの才能と読書と思索の果てが、揶揄されることでいいのか。確かにプラグマティストたちの意見のほうが、一見正しく思えることもあるかも知れない。「イソノミア」なんて言い出して、と思わなくもないけれど、自分はやはり、あまりにも柄谷がパラノイアであっても、きっと読んでいこうと思う。即効で役に立たなくても、ここに何もないとは思えない。それが或いは無意味であっても、ちっとも構わない。まあ、無意味ということはないとは思うが。
 蛇足しておけば、柄谷が憲法第九条を強く支持するというのは、かなりの思想的重さを感じた。また、どこまで本気なのかと思うけれども、柄谷が新たな世界大戦を予想し、それを何とか避けねばならないというのも、不気味な感じがする。しかしこれらは、柄谷の主張からすれば、到達して意外性のない結論だと思う。そんなに簡単に素通りできない。しかし、世界への贈与として、日本は軍隊を放棄すべきだというのは…、どうなんだろう。これは真剣に考えるべきことなのだろうか(主張の一貫性はある)。まあ、これらは柄谷からすれば、枝葉末節のことなのだろうとは思う。