チヌア・アチェベ『崩れゆく絆』

晴。
音楽を聴く。■チェリビダッケの指揮するブラームス交響曲第一番を聴き始めたが、あんまり弱々しい演奏なので聴き止める。■ストラヴィンスキー詩篇交響曲チェリビダッケ)。Celibidache: Sacred Music & Opera。■ベートーヴェンピアノ五重奏曲op.16(レヴァイン、アンサンブル・ウィーン=ベルリン、参照)。申し分ない。この曲の最上の演奏のひとつだろう。殊にレヴァインのピアノが粋だ。■ガーディナーフォーレ・アルバムの、その他諸々(参照)。フォーレの作品一二がよかった。

チヌア・アチェベ『崩れゆく絆』読了。粟飯原文子訳。いつもながら、予備知識もなしに素朴に読んだが、この小説はそうした読み方ではダメなのだろう。訳文は日本語の文体として幼稚に感じたけれども、こうした小説に醇乎とした日本語を期待する方が間違っていよう。著者は「アフリカ文学の父」であり、本書はその最高傑作で、世界的なベストセラーであるそうだ。訳者解説は大変に勉強になった。いわゆる「ポスコロ」であろうか。こうした小説が他にも文庫化されれば、もっと読みたいと思う。

崩れゆく絆 (光文社古典新訳文庫)

崩れゆく絆 (光文社古典新訳文庫)


地方での生活に可能性がないわけではないと、最近思うようになってきた。しかし、マンガチックに云うと、地方の「氣」だな、こいつにフォルムを与えないと意味がない。自分の住んでいる岐阜などは、逆説的だが、やり甲斐がないわけではない。岐阜は究極的に平凡で、住んでいる人たちは心が狭く(というのはもちろん自分のことでもある)、文化的にも沈滞し切っているからだ(岐阜在住で今、偉大な文化人とか誰か居るのだろうか)。ここで可能なら、たぶん日本のどこでも可能だと思う。これを嫌味な自己卑下と思ってもらっては少々困る。まず、荒んでいるところの検証から始めないといけないと思うが、どうも自分にはまだなかなかむずかしい。誰か才能のある人がやってくれると、皆の役に立つと思うのだが。
 追記しておくと、参考になるのはアメリカにおけるカーヴァーのようなやり方である。岐阜で同じようなことをやるのは、もっとむずかしいだろう。普通の岐阜人の「病理」を剔抉できるか。キーワード化するとすれば、「無関心」だろうか。「汝の隣人を愛せよ」というのは、岐阜人から最も遠い言葉ではあるまいか。自分のこととしても、これは強く感じる。