串田孫一『覚めて見た夢』/吉川圭二『弦の量子論』/鬼海弘雄『世間のひと』

晴。
「恵那」にて昼食。暖かくなってきたので、ざる蕎麦にした。

図書館から借りてきた、串田孫一『覚めて見た夢』読了。散文詩集と云ってもいいかも知れない。花だの虫だの樹だの雪だの。

覚めて見た夢

覚めて見た夢

図書館から借りてきた、吉川圭二『弦の量子論』にざっと目を通す。副題「超弦理論への道」。道は遥かに遠そうである。第四章までで弦を量子化するところまでは何とか見当がついたが、相互作用以降はさすがにレヴェルが高かった。積分の中(被積分関数)に何と図が入っているのですよ。でも、こういう本は目を通すだけでも楽しいけれどね。さらに、僕に好きな薄い本。しかし、市の図書館にこういう本があるのが不思議だ。他にどれくらい読む人がいるのだろうか。こんな本をさらに希望。
弦の量子論―超弦理論への道

弦の量子論―超弦理論への道

鬼海弘雄『世間のひと』読了。というか、写真集なのだが、自分がこれまで観た中で最もインパクトがあったそれになった。よく西洋人などが、日本人は誰も同じような顔をしていて、個性がないというようなことを云うが、ここに写っている人たちの個性的な顔を見よ。まったく驚くばかりである。それも、何とも言葉にならないと云うか…確かに、彼ら彼女らの顔は、醜いくらい個性的だ。しかし、陳腐なことを云うが、確かに「味」があるのだ。人生が顔に表れているという気がする。もっとも、写真家も、今では顔も均質化してきたとも言うが。自分もそれほどインパクトの大きい顔でもないと思うし、今のアイドルたちの顔の均質性と云ったらない。これはいいことなのか、どうなのか。
世間のひと (ちくま文庫)

世間のひと (ちくま文庫)


音楽を聴く。■モーツァルト:ピアノ・ソナタ第一番、幻想曲K.397、ピアノ・ソナタ第二番、ロンドK.485(ラローチャ)。見事な演奏。K.485の魅力発見。
Sonatas Volume 4

Sonatas Volume 4


山形浩生氏の書評ブログを読んでいたら、円城塔氏の書評に言及してあっておもしろかった。山形氏は「ぼくが何かを断言したところで、それが本当だということにはならない」と書いておられるけれど、円城氏が言いたいのは、山形氏の断言するところが正しかろうが間違っていようが(つまり「真偽」の問題ではなく)、山形氏はそれを自分の意志で書いていると思っているだけで、じつは何かに(例えば化学反応に)「操られている」(?)のではないか、とつまりそういうことのような気がする。これはまさしくデリダで、ポストモダン嫌いな山形氏が、そうした考え方を馬鹿馬鹿しいと思う(ちなみに自分もある意味そう思う。「主体」が仮に存在しなくても、それが「仮構」されなければ倫理ははあり得ない)のはよくわかる。まあ、自分はパワーズも何も読んではいないのですが。ところで、「何かに操られている」だけれど、初期の神林長平の作品のテーマはすべてこれだよね。懐かしいなあ。もう自分はSFは読まなくなってしまったが。