晴。
綿矢りさ『夢を与える』読了。読んでいてつらい小説だった。ヒロインの破滅に向けて、始めからまったくブレることがない。それに、本格的な(?)小説を目指して書かれたのはよくわかるが、これは綿矢りさにしか書けない小説ではないような気がする。あまり彼女の美質が出ていないようなのだ。もっとも、技術的にはしっかりしているし、誰もがこれほどのものを書けるわけではない。もう一度読もうとは、あまり思わないが。
主人公が人気タレントということで、著者自身の体験というか、実感がこもっているように評している人もあったが、確かにそういうところはあるのかも知れない。しかし、自分は、これ以外の綿矢りさの小説の方が好きだ。最近のも好きである。この人には、この人にしか書けないものがちゃんとあると思う。
斎藤修『プロト工業化の時代』読了。プロト工業化とは、工業化(
産業革命)以前の農村工業の進展を指す。本書では、プロト工業化の「フランドル・モデル」を軸に、そのモデルの検討と他地域との比較がなされている。また、第II部として、日本の歴史に対する「プロト工業化」理念の適用性が論じられる。本書の扱う分野には自分は完全に無知なので、何かを云々するわけにはいかない。ただ、歴史人口学との関係は指摘しておきたい。素人の印象にすぎないが、議論は視野が広い上に、精緻で危なげがない感じだ。統計的手法の活用も余裕を以てなされているように見える。日本の学界に関する
パースペクティブもあって、素人にはそういうものかと思った。一般向けとは云えない本格的な
学術書であり、不思議な文庫化という感じである。
柴山哲也『新京都学派』読了。「新京都学派」とは、本書では
桑原武夫や
梅原猛を中心とした、京都における学者集団を指す。著者はその「新京都学派」周辺にいた人物であって、本書は彼らの顕彰、弁明であり、一種のオマージュをなすものである。例えば、
国際日本文化研究センター(
日文研)設立時の裏話を紹介し、設立の意図を語ったりする。批判的な眼差しはまったくないが、まあそういう本ではないし、それでいけないこともない。贔屓の引き倒しのように見えるところも確実にある一方、いいところもある。本書に出てくる学者たちは、普通(例えば「東京」の目から見て)どうも「胡散臭く」見える人たちが多いが、そこがおもしろいのだ。よくもこういう人物たちが集まったものだと思う。今の京都の学者たちは、残念ながらこれほど「胡散臭く」ないような気がする。本書のオマージュが浮き彫りにするのは、「新京都学派」の学者たちが、一種の「知恵」の持ち主であることだろう。それは、「知」「知性」とはちょっとちがう。胡散臭いが、柔軟な心のはたらきなのだ。さて、そういう「知恵」というのはなかなか群れないのだが、どうしてこんな人たちが(ゆるやかながら)集まったのか。やはり、
桑原武夫の個性によるものなのだろうか。
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音楽を聴く。■
メンデルスゾーン:
交響曲第五番op.107、
木管楽器のための序曲op.24(
アバド)。op.24が楽しい曲。