前野昌弘『今度こそ納得する 物理・数学再入門』

雪。
音楽を聴く。■モーツァルト:ピアノ協奏曲第二十三番K.488(ブレンデル)。■ドヴォルザーク:ヴァイオリン・ソナタ ヘ長調op.57(シャハム)。

ドヴォルザーク・フォー・トゥー

ドヴォルザーク・フォー・トゥー

プロコフィエフ:ピアノ協奏曲第一番op.10(リヒテル1952)。録音状態は悪いが、リヒテルのピアノには唖然とさせられる。完璧。■プロコフィエフ交響曲第一番op.25「古典」(バーンスタインNYPO)。■プロコフィエフ:交響協奏曲ホ短調op.125(ロストロポーヴィチ、サージェント1957)。プロコフィエフにしてはじっくり聴かせる曲。

図書館から借りてきた、前野昌弘『今度こそ納得する 物理・数学再入門』読了。いやあ、面白かった。大学1・2回生あたりで力学や電磁気学をやって、どうも理解があやふやになりがちな部分を、前野先生が丁寧に教えて下さる本である。僕などは優秀でないので、目からウロコがいっぱいあったが、優秀な方でも、自分がどれくらいきちんと理解できているか、本書に挑戦してみてはいかがだろうか。例えば、rot grad や div rot が共に0であることはベクトル解析で勉強するが、これを直観的に理解できますか? できる人は相当に優秀。それから、熱力学のエンタルピー(エントロピーじゃないですよ)、ヘルムホルツの自由エネルギーの物理的なイメージは描けていますか? 電磁気学のベクトル・ポテンシャルの直観的なイメージは? 等々。さて、ちょっと必要な部分だけコピーしておこうっと。
※追記 理系の前野昌弘先生は、どうやら同姓同名の方がおられますね。もうひとりの方は、統計や化学に関する本を書いておられるようだ。これだけ近い分野なので、ややこしいしめずらしい。
今度こそ納得する物理・数学再入門 -誰もが答えを知りたかったFAQ- (知りたい!サイエンス)

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昔から薄々気づいていたこと。それは、東京こそが日本であるということ。そして、最近思うようになったこと。それなら自分は、もしかしたら日本人ではないのかも、ということ。「日本」のイメージに、共感できなくなっている自分がいる。あるいは、最初からそんな「共感」はなかったのかも。日本の田舎は、日本ではない。そして、東京と心中するのはまっぴら御免だということ。東京は、田舎を勝手に好きなように利用しないで欲しい。それに関して、最近の大阪はある意味で愚かだと思う。東京の模造品になろうとしている。「都構想」なんていうのはその表れだ。擬‐東京になるのなら、勝手にやって欲しい。他の地方を巻き込むな。
 別に自分は、田舎にこそ日本の未来がある、とか何とか思っているわけではない(いや、悪い意味も含めて、ちょっとは思っているか)。自分の住んでいるところは、どうやら「東京」ではないと思っているだけのことである。自分には東京は外国だと云ってもいい。そのうち「日本」も外国になるのかも知れない。まさしく非国民である。
 なら、東京に住んでみるか? その方がいいのだろうが、実際はなかなかに無理なことだろう。そこいらが不徹底だと云われれば、返す言葉もない。まあ、基本的に受け身の人ですから。とりあえず、遅々とでも自分の「畑」を耕すこと。幸い、どうやら岐阜は日本に存在しないと思っている人は多そうだ。誰も岐阜を知らない。爽快なほどである。
 尤も、自分の言っていることは矛盾しているのかも知れない。各務原は決して山間部ではなく、「郊外」を擁する若い市である。都会ではないが、ちゃんと国道沿いは「ロードサイド」の郊外であり、イオン・モールはあるし、自分の利用する郊外型中型書店もある。自然がないわけではないが、それにどっぷり浸っているわけでもない。まあ、中途半端なところにはちがいない。そういうタイプの「田舎」であろう。東京の周辺部に似ているのかも知れない。しかし、東京の周辺部よりは、やはり「東京」ではないであろう。少なくとも、自分の感覚ではちがう。
 ああ、世界から時代遅れになりたいような自分がいる。世界規模で嫌な時代。マーケットがすべてを覆う世界。とにかく、「勝ち馬に乗ろうとする」世界(その勝者が現代のエリートである)。そこから逃れることは、今のところ不可能である。それがまず、一切の前提だ。昔に戻ること(それは、敢て不便な暮しをするなどという発想とは関係がない)はできない。昔は、人間はすごい量の情報の中で暮していた。縄文人の感じていた情報量は、彼らが作った土器などを見てもわかる。到底我々の太刀打ちできるものではない。現代の我々は、大量のノイズに晒されているために、感覚が狭くなっている上に、ノイズが脳内に発生させる「重力場」に感性が引き摺られる。アンテナが鈍いうえに、てんでバラバラの方向を向いているのだ。だから、結局幼稚なものしか作ることができないし、幼稚なものしか理解できない。人ごとではないのだ。
 ノイズを引き受けて突き抜けること。それを感受性に転化してしまうこと。簡単ではないことだが。これは田舎ででも同じことだ(同時代である限り、ノイズに晒されていることにちがいはない)。そして田舎では+αがあるし、ないといけないわけだ。