宮田律『世界を標的化する イスラム過激派』

晴。
音楽を聴く。■モーツァルト交響曲第三十八番「プラハ」K.504(カラヤン1977)。スマートで心地よい演奏。■ブラームス:ピアノ協奏曲第一番ニ短調op.15(グリモー、ネルソンス)。技術的には見事だし、感情面でもたっぷり思いを込めて演奏されているのだが、自分の気持ちは1ミリも動かなかった。不思議なことである。これを名演だとする人がいるだろうことはわかるのだが、自分にはまったくダメだった。結局、自分がこの曲に求めているものを、この演奏は与えてくれないのだな。それは、なんだかオトコっぽいもので、若い女性にはわからないものなのかも知れない。女マッチョというか、陰影がないのだ。カラヤンを聴いた後だからかも知れないが、指揮も凡庸に聞こえる。こっちがおかしいのかね。それにしても、アファナシエフがどこかでグリモーの人気ぶりに苦虫を噛み潰すような文章を書いていたが、わかる気がする。自分には、グリモーは悪しき今風に思えるのだ。
 なお、アマゾンのレビューはほぼ皆絶賛である。客観的にはそちらを参照されたい。

Piano Concertos Nos. 1 & 2

Piano Concertos Nos. 1 & 2


宮田律『世界を標的化する イスラム過激派』読了。副題「『アラブの春』で増幅した脅威」。題からすると、いま世界で「テロ」が頻発しているのは、イスラム過激派が悪いのだ、というような論調の本に思えるかも知れないが、実際の中身は、むしろ逆である。自分の読み取ったところでは、偽善的な欧米の態度行動が、事態の原因であるように受け取った。だいたい日本では、イスラム教は「右手にコーラン左手に剣」という言葉があるように、好戦的な宗教だと思われていることが多いが(ウチの父親もそうである)、歴史的に見れば、キリスト教と比べ圧倒的に異教徒に寛容であったというのが事実である。実際、それがゆえにオスマン・トルコ下でも多民族が混交して暮らしていたため、のちに旧ユーゴスラビアや現在のシリア、レバノンにおいて民族・宗教のモザイクとなり、却って問題化してしまったくらいなのであった。また、イスラム支配下にあった中世イベリア半島では、ユダヤ教文化も栄えている。まあ、本書にそうしたことまでは書いてないのだが、イスラム教の寛容についてはきちんと記述がある。
 もちろん、イスラム側に何の問題点もないと云えば、それは誇張になるだろう。しかし、問題を拵えているのは明らかに欧米である。だいたい、欧米の戦略に応じて武器が供給されるために、紛争になるのだ。イスラム教の国で、高度な兵器製造能力のある国は存在しない。武器は、欧米各国が握っているのである。資金もまたそうで、概してイスラム教国家は、欧米各国に比べ大した資金を持っていない。資金を供給するのも、また欧米なのだ。
 思うに、欧米もイスラムも、やっていることは複雑怪奇だが、根本的にはイデオロギーが単純すぎるのである。お互いに相容れないイデオロギーを第一原理にして、それらが衝突しあっているのだから、始末におえないのだ。その意味では、今のイスラムは確かに寛容とは云えないし、そうするための余裕もない。欧米(キリスト教国と云うべきか)の不寛容さは言うまでもない。そうして、殺されるのはまたしても(無辜とばかりは云えないかも知れないが)民衆である。
 どうも抽象的なことを書いたが、本書は基本的に具体の書である。そのあたりは、実際に読んでみて頂きたい。例えばシリア内戦の反政府側の後ろには、サウジアラビアがいるというのは、自分は知らなかったが、こうしたことをここで一々書こうとは思わない。読了してみて、かかる分野の新書本はもっと有るべきだと感じた。下らない新書ばかり出していないで、出版社はさらに人を見つけてきて欲しいものだと思った。早寝。