川勝正幸『ポップ中毒者の手記(約10年分)』

晴。
寝過ぎ。どうしてこう眠れるのか。
野家啓一『科学の解釈学』を読む。まだ読んでいる最中なのであるが、面白くて色々妄想が湧いてきたので、メモしておく。クワインの「知のネットワーク」という発想は、基本的に正しいと思う。自分はさらに過激に、「知」だけでなく、あらゆる存在は、網の目のようなネットワークを作っていて、すべては繫っていると主張したい。例えば、科学とマンガ、ポルノグラフィからさらには動植物界まで、すべては連関しているのである。その立場は、一応ホーリズムに属するだろうが、そういうことは自分にはどうでもいい。ただ、そのネットワークは、比較的ゆるやかな結びつきである。「論理」による結びつきは、とても強いし、科学でいう連関というのは、このような論理的な結びつきということになろう。自分は最終的には、すべてが論理的な連関をもつことになると思うが、それは予想に過ぎない。だから、クワイン的な発想ならば、クーン的な「科学革命」はあり得ないことになるし、ある意味ではそれはそうなのだが、論理の強い結びつきを考えれば、「パラダイム変換」ということはやはり存在する。そこらあたりは、どちらかの立場のみが正しいとは云えない。そして、弱いホーリズム的な発想を取ると、ネットワークのゆるやかな組み換えはいつでも絶えず生じているが、そのメカニズムは自分にはまだよくわからない。
 また、「パラダイム」を狭い意味で捉え、「パラダイム言明」(p.215)として、「知のネットワーク」の中心に位置した、「経験」との直接的な衝突から免れている存在と描くのは、誤りだと思う。それは、いわば「現象学的」存在であり、「本質的」存在ではない。はしなくもここで「本質的」という語を使ってしまったが、唯物論的に「本質」とは存在(?)するのであろうか。それは何なのだろう。また、それと関係するのかよくわからないが、我々の知覚する世界の究極的な存在は、絶対無分節的であり、我々の認識能力によって初めて「恣意的に」分節化されて知覚されるわけであるが、科学的な「認識」を考えると、「恣意的」な世界分節ではなく、「必然的な」世界分節ということはあり得るのだろうか、という問題である。具体的に云えば、例えば「クオーク」なる存在は、他の方法で言い換えられるものではなく、唯一絶対的な世界の分節化なのであろうか、ということだ。(ポストモダンではないが)唯一絶対的な「真理」はない筈なのに、やはり物理学の「真理」は絶対究極的なものなのであろうか。いや、物理学でもクオークは「弦」だ、などという理論も出てきて、情勢は混沌としていなくもないが、ヒッグス粒子も発見され、物理学の「標準模型」の疑いなさはますます強くなっているのだ。いや、ちょっと話を大きくしすぎたか。
 もうちょっと補足しておくと、例えばニュートン力学から相対論への転換は、科学革命の典型的な例であり、それによって前者は息の根を止められた、というような記述がよくあるが、こういうのが自分にはよくわからない。相対論は(「特殊」も「一般」も)、ニュートン力学の一種の「極限」なのであるが。実際、自分の中では、普通にニュートン力学の場所もちゃんとあるし、解くべき問題によっては、相対論ではなくニュートン力学を使う。また、一般相対性理論でも、(弱い重力場の)極限としてニュートンの重力理論がなければ、定数の解釈がつかない。そういうことである。
 それから、上のことと関係しているが、自分は特権的な第一原理を認めない、一種の相対主義者と云ってもいいと思うが、一方で(あり得ないけれど)自分が物理や数学の教科書を書くと仮定すれば、少数の特権的な公理から演繹する、公理論的な記述を、恐らくすると思う。そのあたりは矛盾しているとも見えようが、自分の中ではまったく矛盾していないようなのだ。ここでも、すべてが連関するゆるやかなネットワークと、論理的な、「幾何学の精神」としての「知のネットワーク」とは、重なる面と異なってくる面があるのだろう。そして、西洋では、かつ西洋でだけ、後者の(論理的な)ネットワークが爆発的なまでに発展したのである。科学もその内に入る。これも、今後考えるべきことであろう。

川勝正幸『ポップ中毒者の手記(約10年分)』読了。うーむ、知らない固有名詞ばかりだ。こうした本を読むと、自分が田舎者で、いかに偏った文化的立場にあってきたかわかる。本書は自分には教科書です、ってダサい読み方だけれど。しかし、著者は早世だったのだなあ。こういうことをやった人って、他にいるのかなあ。文庫化ありがたう。
※追記 検索していて知ったが、川勝さん(Wikipedia)の死因って、自宅の出火によるものだったのか。著名人非著名人らのツイートなどのまとめ(参照)があって、慕われていたのだと知る。知ったばかりの人だが、こういうのはやりきれないな。
ポップ中毒者の手記(約10年分) (河出文庫)

ポップ中毒者の手記(約10年分) (河出文庫)


音楽を聴く。■モーツァルト:ピアノ・ソナタ第十三番K.333(リヒテル1966 Live)、第十五番K.533/494、第十六番K.545(リヒテル1956Live)。天使のような曲の、天使のような演奏。あんまり趣味が良すぎるくらいですが。しかし、K.545 のいわゆる「やさしいソナタ」だが、子供でも容易に弾ける曲を、「最強のコミュニケーター」(グールド命名)が弾くとどうなるか、そのよい見本だと思う。まったく素晴らしい。(02:07記)