『井筒俊彦著作集10 存在認識の道』/マンデリシュターム『トリスチア』

日曜日。晴。朝は寒いくらい。ようやく例年どおりになってきた。
図書館から借りてきた、『井筒俊彦著作集10 存在認識の道』読了。モッラー・サドラーの著の翻訳。小著だが、じつに面白い形而上学だ。形而上学の書を読んでこれほど熱中させられたのは久しぶり。もう一度アリストテレスを読み返すか。本書の内容について、自分などに言えることは何もない。ただ、外界において存在は本質と一体化しており、そして存在こそが「根源的実在性」を持つということ。そして存在と本質の区別は、意識の中で初めて起こるのだということ。もちろんこんなのは超過度の単純化であり、何も言っていないに等しく、本書のそれだけで優に哲学論文といえる複雑な解説に、詳しい説明がなされているのを参照して頂きたい。まあ、本書の「存在」はカントの「物自体」に似ているような気もするが、カントは物自体に関しては殆ど何も言っていないのだった。(しかし、自分に西洋の中世スコラ哲学の素養がないのは、何ともどうしようもない欠落である。これでは何も語れない。)また、モッラー・サドラーは、スフラワルディーのように、スコラ的教養と神秘主義体験の両方を兼ね備えていた人物だったそうである。
 それにしても、幼稚な問いだが、我々はどうして意識と外界の区別があることがわかるのだろう。もちろんその区別を立てない形而上学もたくさんあるわけだが、素直に考えればやはりその違いがあると思うのが普通だろう。唯物論とか観念論とか云うけれどね。
 本書は是非手元に置いておきたいような書物なのだが、平凡社ライブラリーとか岩波文庫とかに入らないかねえ。井筒俊彦著作集には、まだ読んでいない内容のものがあるから、また県図書館で借りよう。

井筒俊彦著作集 (10) 存在認識の道―存在と本質について

井筒俊彦著作集 (10) 存在認識の道―存在と本質について


カルコス。
いい天気なので、適当に車で行って、ふらふら散歩する。まず、蘇原のイトーヨーカドーの跡にできた、バローへ行ってみる。へー、本家のスーパーだけでなく、ホームセンターやあかのれんもあるんだ。以前の面影はまったくないな。
 で、その近くを散歩。名鉄六軒駅の方へ、昔からある商店街を歩いたのだが、まったくつまらない。途中で御神輿をつっているのに出会ったのだけが、収穫だった。蘇原第二小の祭りなんだって。
 最近できた各務原大橋へ行ってみる。いったん橋をわたり(カーナビには橋が載っていなくて、木曽川の真上を進むようになっていた)、もどって各務原大橋交流広場とかいうところに車を駐める。いい天気なので、一〇人くらいの年配の方々がクロッケーゴルフで遊んでいた。徒歩で橋をわたり、途中、歩道にオブジェの石が四個置いてあるところまで歩く。木曽川が真っ青で、秋の空とともに身に滲みた。
2013年夏・秋_96
2013年夏・秋_99

図書館から借りてきた、オシップ・マンデリシュターム『トリスチア』読了。早川眞理訳。
詩集 トリスチア―エッセイ 言葉と文化 悲しみの歌 (群像社ライブラリー)

詩集 トリスチア―エッセイ 言葉と文化 悲しみの歌 (群像社ライブラリー)


音楽を聴く。■マーラー交響曲第八番(シャイー)。悪くない。
マーラー:交響曲第8番

マーラー:交響曲第8番

モーツァルト:ピアノ・ソナタ第十二番K.332、第十三番K.333、第十四番K.457、アダージョ ロ短調K.540(ブレンデル)。他にもブレンデルが聴きたくなってきた。
モーツァルト:ピアノ・ソナタ第12番・第13番・第14番

モーツァルト:ピアノ・ソナタ第12番・第13番・第14番