室生犀星『蜜のあわれ・われはうたえどもやぶれかぶれ』/山崎ナオコーラ『長い終わりが始まる』

雨のち曇。
室生犀星蜜のあわれ・われはうたえどもやぶれかぶれ』読了。犀星って何となく美しい文章を書く人だという印象であったが、これはまたなんという凄惨だろう。「蜜のあわれ」はこまっしゃくれた金魚の話であるが、ってなんだがわからないだろうが、娘なのかよくわからない金魚との会話だけで成立している。主人公(犀星を思わせる)が過去に関係のあった女が幽霊で出てきたり、そもそも愛人のような口を利く小娘風の金魚というのが謎だ。不透明な何かを感じさせる、これは傑作と云ってもいいだろう。
 「われは…」の方は、老齢の作家(これも犀星らしい)の御叱呼が出ないという話から、入院の時のまったく身も蓋もないエピソードやら心の動きやらが、隠すことなくリアルに(と思われる)描写されていて、凄惨だ。死に近づきつつある様子が、私小説風に、本当に「やぶれかぶれ」に書かれている。これも犀星だとは。傑作だか何だかわからないが、まさしく文学にちがいない。

山崎ナオコーラ『長い終わりが始まる』読了。大学のマンドリン・サークルを舞台にした、「青春小説」(棒読み)とでも云えようか。いずれにせよ、自分の大学生活とはかけ離れているので、何とも言い様がない。正直言って、こういう男女たちには、自分は「やれやれ」とでも嘆息するしかないのだが、小説としては優れていると思う。ヒロインはマンドリンのことと男のことばかり考えて過ごしているのだが、これがたぶん当り前の大学生なんだろうな。協調性のないヒロインに対する、周りの嫌悪感と、ヒロインの演奏技術の高さ、音楽に対する打ち込みゆえの、嫉妬と共感は、繊細に描かれている。しかし、お前らそんなことしかやることないの?
 解説は宇野常寛だが、彼の文章は自分には何を言っているかわからないけれど(自分の理解した限りでは、彼は自意識過剰なのでは)、文章の強度は素晴らしいので、宇野氏は云われるだけのことはあると思った。かの下らない『日本文化の論点』の著者とは、ちょっと思えないくらいである。
長い終わりが始まる (講談社文庫)

長い終わりが始まる (講談社文庫)


音楽を聴く。■ベートーヴェン交響曲第六番(シャイー)。速いテンポの、元気な演奏。正直言って、ちょっとデリカシーを欠くなあと聴いていて思っていたのだが、終楽章は繊細で素晴らしかった。ほう、こういう演奏もするのか、と認識を新たにした次第。■モーツァルト:ピアノ・ソナタ第九番K.311、幻想曲K.397(ブレンデル)。ブレンデルはさすがだ。やはり巨匠の名にふさわしい。ちょっと聴くだけでは平凡に思われるのに。

県立図書館。マンデリシュターム、ルネ・シャール井筒俊彦訳のモッラー・サドラーなど。