多田富雄『残夢整理』/西村賢太『二度はゆけぬ町の地図』

晴。
音楽を聴く。■ベートーヴェン:チェロ・ソナタ第一番op.5-1、第四番op.102-1、第五番op.102-2(ロストロポーヴィチリヒテル)。後期の作である作品一〇二の二曲は、謎のような曲だ。ベートーヴェンがどういう曲を書きたかったのか、意図がわかりにくい。とにかくシブい曲だな。第一番はわかりやすく、素直な感じ。この間に多くの時間が流れたが、チェロ・ソナタを聴く限りはそんなに隔てがないようにも思える。■マーラー交響曲第七番(シャイー)。シャイーのマーラーはいい。ここでも明解な演奏が聴ける。しかしこの曲、最初の四楽章は謎めいているのに、終楽章だけ飛びきり通俗的なのはおもしろい。柴田南雄は、「夜の音楽」と題された第二、第四楽章が傑作だと書いていたな。不思議な音楽だが。

マーラー:交響曲第7番

マーラー:交響曲第7番

ロールズを読む。

映画「テルマエ・ロマエ」を観る(録画)。いやあ、おもしろかった。バカバカしくて笑える。濃い顔の阿部寛が、ローマ人にぴったり。最後はシリアスですけれど。しかし、続編なんて造れるのかね。上戸彩は意外にうまいねえ。
テルマエ・ロマエ 通常盤 [DVD]

テルマエ・ロマエ 通常盤 [DVD]


多田富雄『残夢整理』読了。恐らく著者最後の本なのではないか。生涯に出会った人たちの回想録であるが、対象はすべて死者である。たぶん、己の死を覚悟してお書きになったのではないか。最初から真ん中くらいまでは、凄惨な内容である。まともな死に方をした人物はひとりもいない。著者はもちろん世界的な免疫学者であったが、そればかりでなく、豊かな文学的才能があった。だから本書も、免疫学者の余技などではない。真に文学的感動を与える、稀な書物になっている。ただ、最後の二篇、恩師の岡林篤氏と、能楽師の橋岡久馬氏を扱ったものには、救いが見られる。特に最後の橋岡久馬氏を描いた文章では、舞台の数日前に、手を骨折して骨が飛び出るほどの怪我を負った橋岡氏が、「道成寺」を舞う場面の描写があって、こちらも思わず感極まってしまう程だった。
 しかし、文学的才能をもつというのは、怖ろしいことでもある。著者もまた、氏自身の云う「鵺」をもった人だった。才能があるというのは、人間的魅力とともに、平凡な幸せから離れてしまいかねない。常に、創造の神は意地が悪いのだ。まさしく凄惨である。本書の文庫巻末エッセイは、独文学者の池内紀氏の手に成るものだったが、この優れた文章家の文章が、多田氏の文章のあとでは汚く感じられるほどだった。本書が文学史に名を留めないということがあるとすれば、それはおかしなことだと思われるくらいである。
残夢整理―昭和の青春 (新潮文庫)

残夢整理―昭和の青春 (新潮文庫)

西村賢太『二度はゆけぬ町の地図』読了。『暗渠の宿』を読んだときは大いに肯定したのだが、本書は絶賛というわけにはいかない。まあ、自分の感覚が変ってしまったのだろうが、あまりにも貧乏臭いし、私小説の主人公・貫多はどうしようもなく甘ったれた奴である。話がおもしろいのはいいのだが、読みながらウンザリしてくるのもまた否めない。そこが「文学」というなら、それ以上云うことはないわけだが。尤も、留置場体験を書いた「春は青いバスに乗って」は、題材から文句なしに読ませた。以上、多少貶したが、西村賢太の小説はまた読むのではなかろうか。
今夜は中秋の名月。こんな美しい月を見たのは久しぶり。雲ひとつない空に懸かっている。