内田樹『街場の読書論』

晴。夜雨。
図書館。

図書館から借りてきた、内田樹『街場の読書論』読了。いやー、図書館から借りてきたのはこの一冊だけだったのだが、四〇〇頁一気に読みきってしまった。内田樹、もっと借りてきておけばよかった。
 さて、本書には内田樹が文章を書くときのモットーとして、「リーダブル」という語が何度も出てくる。「読みやすい」ということなのだが、それは「やさしい」ということではない。むずかしい言葉を使ってあったり、難解な内容であっても、「リーダブル」ということはあり得る。つまりそれは、「読ませる」という方が近そうだ。実際、本書は自分にとって「リーダブル」で、内容もよかったが、それと同時に文章のドライヴ感が素晴らしかった。だから四〇〇頁一気に読んでしまったわけである。中身なんか、ちょっとくらい飛ばしてもいいのである。
 内田樹は、自分には「逆説」の達人だと思われる。通念をひっくり返されるのが快感である。この点では、ちょっと小林秀雄を思わせないでもない。あの人も、「逆説」が上手かった。小林秀雄は若者に圧倒的にウケたのであり、「教祖」と皮肉られたくらいだが、内田樹にも若い熱心な読者が多い。でも、自分みたいなおじさんにも、おもしろいです。もう絶賛。もっと読もう。
 ところで、自分は本書のタイトルにある、「街場」という語を知らない。これ、どう読むのだろうと思って辞書を引いてみたのだが、載っていないのだ。「まちば」だろうね。

街場の読書論

街場の読書論

追記しておくか。内田樹は、自分の書くものは「商品」ではないと、何度も断っている。自分には書きたいことがあり、読んでもらいたいことがあるから、とにかくそれが第一なのだと。これは最近ではまずあり得ない、気持ちのよい態度である。正直言って仮に僕の書くものがお金になるなんてことがあったら、ここまで潔い態度を採れるか、自信はない。というか、無理っぽい。だいたい僕には、そこまで書きたいことがあるのか、どうか。もしかすると、書きたいことがないのなら、筆を執らないほうがいいのかも知れないのだが。それはともかく、著作権よりも読んでもらう方が先だというのは、なかなか採れる態度ではない。内田樹がブログを重視するのも、そうしてみれば当然のことである。しかしそういう著者だからこそ、みんな本を読んでみたいということはあるよな。だからそれは、マーケティングの方法としても、間違ってはいないのかも知れない。
 ただ、個人的な話になると、自分のやりたいこと、いや、できることは内田樹とはちがうのだと思う。内田樹は、明らかに才能がある。自分がやりたいのは、才能のない人間でも、何かできるのかということである(それに、敢て云えば、才能とは何だろうということ)。自分も、凡人なので、それなりに何かしてみたいという煩悩はある。そこらあたりの、方法論はないのかなというのは、まあ気にかけてきたことだ。無理ならそれでも仕方がないしね。しかしどうも生臭い話ですな。

今日で早出もおしまい。ふぅ、ようやくか。