國分功一郎『ドゥルーズの哲学原理』/岡崎武志『読書の腕前』

雨。
エスのあるところに自我をあらしめよ」という精神分析的な定言命法があるが、これはまさしくその通りである。そうでなくては、空疎なことを語ることになる。しかしこの時の「エス」は、仮に「無意識」だと翻訳すれば、それは相当に「浅い無意識」である。我々の精神活動のすべての基盤となっている、深い意味での無意識は、そこに自我をあらしめたりするようなものではない。

國分功一郎ドゥルーズの哲学原理』読了。日録に書く。

ドゥルーズの哲学原理 (岩波現代全書)

ドゥルーズの哲学原理 (岩波現代全書)

岡崎武志『読書の腕前』読了。岡崎流読書術(或は読書論)。達人の読書論だから、本を読む上でもちろん参考にもなるけれど、著者と本の結びつきの強さというか、著者の極私的なエピソードも面白かった。著者は、本を読み、ものを書くという以外、劣等生だったと明かしておられるが、結局は優れた読み手・書き手になられたのだから、それはやはり素晴らしいと思う。個人的なことを云えば、僕も子供の頃から本は好きで、小学生の時「学級文庫」(クラスに備え付けの本)を読破してしまうような少年だったし、これは岡崎さんとはちがって(失礼!)、ずっと(極平凡な)優等生だったが、これも結局は、読むと書くことに関し、到底岡崎さんには及ばない。ネットの「集合知」を信じて、多読など価値がないという人も最近は多いが、年間三〇〇〇冊も蔵書が増えていくというのが、如何に精神の豊かさに直結しているかくらいのことは、僕にもわかる。実際、多読ほど面白いことが、世の中に他にどれくらいあるというのか。
 これも機会だから個人的なことも書いておけば、僕は本には、「読むべき本」と「読みたい本」の両方があるといいと思う。「読みたい本」の方は問題ないと思うが、「読むべき本」というのは、必ずしも「教養書」というわけではない。自分はじつは「教養書」もあっていいと思うのだが、今の時代にそれを言っても仕方ないと思うので、「読むべき本」というのは、飽くまでも自分でそう思う本ということである。そして、「読みたい本」と「読むべき本」が一致するというのが、祝福された読書だと思っている。そう、飽くまで「読みたい本」一辺倒というのは、僕はつまらないと思うのだ。
 それから、岡崎流には殆ど賛成なのだが、あと付け加えることがあるとすれば、「抽象」の快楽ということを、指摘しておきたい。僕は、日本の読書家はあまりにも文学一辺倒すぎると思う。抽象的な内容の書物、つまり哲学や数学、物理学、分子生物学、経済学、社会学等々、そうした分野の書物。こういうものも、読み慣れてくると強烈な魅力があることを書いておきたい。その魅力は、いわゆるエンターテイメント本などとは比較にならないくらいだと云っても過言ではない。ただ、背伸びはすべきだが、あまりハッタリをかまさない方がいいとは、忠告(そして自戒)しておきます。
読書の腕前 (光文社新書)

読書の腕前 (光文社新書)