日高敏隆『人間はどういう動物か』/ヨーゼフ・ロート『聖なる酔っぱらいの伝説』

曇。のち雨。
日高敏隆『人間はどういう動物か』読了。最近の生物学では、個体の生存競争は己の遺伝子を残すために行われると説く。いわゆる「利己的な遺伝子」説であり、歴史を一周して、アリストテレスのような目的論に回帰してきたように見えなくもない。ドーキンスの翻訳者でもある著者の立場も、基本的にこれである。いや、それプラス、動物行動学における「コスト・ベネフィット」説とのアマルガムでもあるか。著者に云わせれば、人間においてもこれが成り立つという。例えば、最近の少子化問題では、己の遺伝子を残そうという理論は一見当てはまらないようにも見えるが、コスト・ベネフィットを考えれば、子孫を残さないほうがコストを回避でき、己のベネフィットになるとすれば、矛盾はない*1。たぶん、それは正しいのだろう。人間もまた、動物であることに変わりはないわけである。
 もちろん、人間を他の動物と比べると、変っている点がないわけではない。例えば、直立二足歩行というのは、動物として大変にリスキーな選択だったようにも見える。本書で一番面白く思われたのは、「死」というものを認識するのは人間だけだということだ。これは手を打ちたいような事実で、実際それは重要だと思う。「死」の認識は、原因であるよりはむしろ結果だとは思うが、人間の精神のどのような部分からそれが出てくるのか、知りたいものである。自分の勘では、それは言語と結びついているような気がして、仕方がないのだが。

ヨーゼフ・ロート聖なる酔っぱらいの伝説』読了。池内紀訳。表題作他、「蜘蛛の巣」「四月、ある愛の物語」「ファルメライヤー駅長」「皇帝の胸像」を収録。この内「蜘蛛の巣」はロートの処女作、また、表題作は絶筆である。どれもハッピー・エンドとは云えないのに、さほど暗い読後感を残さない。筆は軽妙だが、その底にある絶望が、ラストを予感させるからであろうか。しかし、主人公の死で終る表題作は、これはもしかしたらハッピー・エンドなのかも知れない。次々に幸運に見舞われる主人公の呑んだくれは、「おちびのテレーズ」(サント・マリー礼拝堂に祀られている聖女のことである)に何度も金を返し損ないながら、酒場で心臓麻痺か何かで死んでしまうのであるが、雰囲気はどこか寓話やメルヘンのようで明るい。そして本作を書いたあと、まったく小説のままに、呑んだくれのロートはパリのホテル前で倒れて死んでしまうのである。
 とにかく、この表題作は傑作で、本書の印象もこの作を読むと変ってしまう。訳文も素晴らしいのだが、恣意的な翻訳で、誰の本を訳しても池内調にしてしまう訳者が、この本では原文を尊重していることを祈りたい。他にももう少しロートを読んでみたくなったので、長編『ラデツキー行進曲』もそのうち読めるといいなあ。

*1:アフリカなどで人口の増加が止まらないのは、日本などとは逆に、子をたくさん残すことが己のベネフィットになるからであると云えよう。